2001年6月の冒険
 

南京で冒険する

その1 南京大虐殺編

■なぁんか、どっかヘン

初手から、しのごの国旗やら国名のことで言い訳したあげくに、
1)南京大虐殺はなかった
2)南京小虐殺ならあった
3)南京中虐殺ならあった
4)南京大虐殺はあった
のうちどれでしょう?

などと、またもやクイズ形式にしてしらばっくれたり、詳しくはここで自分の目で確かめましょう! などと丸投げした日には、どう考えても殴る蹴るの暴行を加えられそうだ。
「南京大虐殺」にまつわることについて、説明やら検証は避けられない。
調べ物は大好きだが、それを逐一ネタモトを明らかにして説明するのが、ものすごぉーーーくめんどくさい……私はこんなヤツなので、適当にあっちゃこっちゃはしょるではあろうが、とにかく「冒険小僧的ヘンの指摘」を目指して書いてみようと思う。

ただ、証言関係について、「見なかったからなかった」式展開はナシで話を進めていきたい。
「見なかったからなかった」というのは、南京大虐殺否定派の人達がよく使っているヤツで、要するに「南京大虐殺当時、誰と誰が南京に行っていたが、そんな話は聞かなかった。見なかった=ない」というアレ。
9月の第1週の土曜日・日曜日に大阪に居た人が
「彦八まつりなんて見なかったし聞かなかった」
といえば、彦八まつり自体の存在が否定されるかと言えば、「ご冗談を……」であることからもわかるだろう。(どうしてたとえ話が落語方面に絡みつくのかということは、「ぼうけんこぞう」の中なので問題にしてはならない)
同じように「……って聞いたからそうだ」も要注意と自戒とする。
「ぼうけんこぞうを読む人ってお茶目でお笑い好きで、しかもヘンな人」
って誰かが言ってたから、今これを読んでいる「あなたはお茶目で、しかもお笑い好きです」と断定されたら
「それ、ちょっとちゃうやろーー!」
と反論をしたくなる人は皆無ではあるまい。
ま、お笑い好きの冤罪?くらいなら、それこそ笑って誤魔化せるかもしれないが
「今これを読んでいるあなたは人殺しだって聞きました」
ゆえによって
「あなたは人殺しです」
で断罪され、処刑されてしまっては洒落にならない。
やっぱり「誰が、いつ、どこで言った」のを聞いたの? も確認したい。

くれぐれも言っておくが、私は南京大虐殺なんてデッチあげだーー!とか言っているわけじゃなく、「イスラエルで冒険する」のところでやったようなオカシイもんはオカシイの法則にのっとった検証であり、私がどこの国の国民でどこの国に今住んでいるとか……そういうのもまったく関係ないことが前提だ。

とまぁ、よくも言いたい放題のうがきタレた後ではあるが、まぁぼちぼち……いつものようにどーでもいいお話から、入ってみたりするのである。


■中華人民共和国の新聞は信じられん!

(2000年6月の14日に、台湾で大きな地震があったらしい。
「〜らしい」とか言っている私は当然台湾にはおらず、中国の揚州という詩や詩人やチャーハンで有名な?古都をフラフラしていて、柳に囲まれた緑の川面をながめつつひとりたたずみ
「粗末な服を着て、粗末な食事をする。詩はもっと素敵なものになる」
などという詩人・金農の掛け軸に書かれた言葉を噛みしめ、どっぷりと清や唐の時代にタイムトリップしてはソノ気になっていたからである。
かといって台湾に地震があったことを知らなかったわけではない。
なにを隠そう、その話はちゃんと聞いていたのだが、思いっきり嘘だと思っていたのである。
なぜ、どうしてこうも疑ぐり深くなっちゃったかというと……ことのはじめは南京だ。

私は旅でも日常でも
「どうか私を騙してください」
いわんばかりにボケェーとしている! と、よく友人から誉められる?のだが……、南京駅前でも私はいつものようにボケェーと朝食が出て来るのを待っていた。
私が入った店は中国のいわゆる大衆食堂で、ずらぁーーっとおかずが並んでいて
「うーんとね、これとこれとー。あ、これもね」
指さし点呼式で注文すると、お店の人が盛ってくれるというスタイル。こういう食堂の中にははおかずの品数はおろか、値段さえも記されていない場合も多い。
「いくら?」
などと曖昧な尋ね方をすると
「5元、8元、10元」
いきなり金額を羅列されてはぁ?? という気分になる。
要するに「5元、8元、10元の三つのコースがありますよ」という意味なのだが、ここでまた
「5元のだと中身は?」
と聞いてはじめて
「肉入りおかず二品、野菜関係二品」
なる構成とその全貌が明らかにされるのである。
「じゃ、8元のは?」
「10元のは?」
順番に訊いていくうちには
「え〜と、なにがなんだったっけか?」
数字に弱い私はハジから忘れていくことになる。
「ったく、おかずの種類が何品でいくらって明記しといてくれよ」
毎回尋ねるのが面倒くさいので思いつつも、中国人というのは本当に「交渉の民」なのだなぁと、なんでもかんでもに値札のついているのを常識として来た私は感服もするのである。

どーーんっ!
「肉入りおかず2品と野菜おかず2品セット、5元」が目の前のテーブルに置かれたのはいいが
「中国の方って朝から、ものごっつい量をお召し上がりになるものよのぉ。ひょぇ〜」
で目が点になってしまった。そのボリュームの多さには、箸を割った時点ですでに
「げっぷ」
はしたない音が胃の奥から沸き上がった。しかし、その時である。

「新聞、新聞、新聞はいらないかぁぁー!3紙で1元買った!買った!」
まるで号外かなにかと間違えてしまいそうな勢いとデカイ声、新聞を両手いっぱいにかかえた売り子おじさんが店の中へ入って来て、新聞の大安売り。どうせ買ったところで簡体字(中国は台灣・香港の繁体字より、日本の簡略化漢字より、もっとシンプルな記号を使っている)で読みにくいことこの上ないし、南京で最近起こった出来事くらいなら、毎晩これまたボケェーっと眺めるテレビ・ニュースでだいたいのことは把握できる。
ふぅーーん、興味ないもんね。
私はナンの反応もせず
「このてんこ盛りのおかず君たちに、どのようにして戦いを挑むべきであるか」
という、目の前の超スペシャル大きな難問に取り組んだのであるが
「ヘッドラインは、台湾関係!なんてったって昨晩23時46分、あの李登輝が暗殺されたっのだ!」
かなんか、新聞売りが言うものだから
「えっ?!うそぉ」
つい脊髄反射で顔を上げた。
新聞売りもこれを見逃さず、すすすっと私の方へ近づいて来たのだが
「ええわたくし、ウイグル自治区からやってまいりました」
私がこんな顔の造作だったせいだろうか、これまたすすすっと目をそらし……隣の席のおじさんの横で
「それに関して陳代表は独立を宣言しぃー」
また違うネタをかぁーかぁー言うんである。
しかーし、中華民国の前総統である李登輝氏が暗殺されて、元総統の陳水偏氏が独立を宣言なんかしちゃったら、それはもう大変なことなのである。
中華民国の男性全員は45歳まで「後軍人」として戦争に駆り出されることになっているわけで、ウチの旦那にだって召集が来るに違いない。こんなところでボケェーっとてんこ盛りのおかず相手に戦っている場合ではない!

食事もそこそこ、あたふたと食堂を飛び出してホテルに戻ってテレビをつける。
が、そんなことどこもなぁーんにも放送してないのである。困った私がホテルの服務員さんに尋ねてみると
「あぁーー、そんなの新聞を売りたいがためのガセネタだよ。そんなんでいちいち慌ててんのは、キミだけさ。だって陳水偏も李登輝も、ここの新聞じゃ毎日暗殺されてるもの……」
などと言うではないか。
あぁーーーーもーーーー私の5元の朝食返せぇーーっ!
……ということではなく、それで中国の「ニュース」というのに懲りちゃったんである。

そんなわけで揚州で「台湾大大大地震」とかいう新聞の見出しを見ても
「またまたぁ〜、はいはいわかってます。台湾は毎日大地震なんでしょ」
ハナから取り合わずに居たのであるが……帰って来たらマジで地震があったとのこと。友達から
「こ、こぞーさんっ!生きてますか?台湾で大きな地震あったっていうから心配してたんですよぉ。連絡も取れないし」
と言われて、
「やれやれ、中国の新聞もたまにはホントのこと言うこともあるのだ」
逆に驚いたりなんかしたのである。


■屠殺って……いくらなんでも

いわゆる私の知っている「南京大虐殺」は、本場?中国では「南京大屠殺」なる名称で呼ばれているらしい。最初にこの「屠殺」の文字を見た時には
「おいっ!それはいくらなんでも……すごすぎるネーミングじゃないかぁ?」
一瞬ひるんだ。
何も今更こんなところで、コトバの解説をするつもりはないのだが……日本語で「屠殺」といえば、肉や皮などをとるために、牛や豚などの家畜・けものを殺すことである。
じゃぁ、カマキリだったらどうか、トキだったら、イリオモテヤマネコだったらどうかという疑問は浮かぶが、「体の一部を(取るの)が目的か」、相手が「家畜・けもの」であるかという各自の判断にまかせることにして……
とりあえず屠殺の対象は「人ではない」ということにしておくわけで
「私の身体だけが目的だったのね……あんなオトコはけだものだわ!」
とかいうのは、この場合はいっさい関係ないことにする。

となるとだ……。
おおーっ!そうだったのかぁーーーっ!
「中国人は人に非ず」=動物もしくは家畜、けもの?
という解釈に日本語だとなってしまうのである。
つまり「ひるんだ」と書いたのは、「そんなに悲惨な戦争だったとは……(日本人として肩を落としてがっくり)」ではなく
「げっ、中国人ってヒトじゃなかったの?うそぉ、ヒトに見えるけどなぁ(目をこすってごしごし)するってーと何かい?私は動物と結婚しちゃってるってことになるのかい?」
という、自らの価値観崩壊(←そんなにオオゲサなことかよー!)におののいたからである。

いやぁ、いくら新聞に嘘の暗殺事件を今日でも書き散らかすからって、なにも自らそこまで卑下するこたぁないじゃないの……と、勘違いな方向へ思考が行くのは私ぐらいか?
まさか他に居るとは思えないが、誤解を避けるためにワンポイント中国語講座を開いておくと……中国語には「虐殺」という漢字二文字の組み合わせがない。
「虐」という漢字はもちろんあって日本語でいう「虐待・虐殺」に当たる広い意味を持つのだが、日本語の「屠殺」に当たる漢字は「宰」である。宰牛、宰鶏……というように、後ろに屠殺対象の生き物をくっつけて表現するが、とりあえず宰人とか宰殺とは言わない。
中国側のいう「屠殺」とはすなわち、日本語の「虐殺」を意味するのであって、中国人がヒトでなし?説などとは何の関係もなかったのである。
ちなみに私は中華民国人を相手に、「南京大屠殺事件」という文字を日本人が目にすると
「南京大宰牛・宰豚・宰その他もろもろ動物事件」
という風に映るのだと説明してみたところ
「うわっ、そりゃすげーや」
みなさま違う意味でノケぞっていた。
「ってことはだよ?中国人がヒトである以上、この事件は戦争中に大日本帝国軍が誤って屠殺した動物についての物語……と日本語で解釈されても文句は言えないんじゃないの?」
なる小手先での議論のすり替えもしてみたが、やはりこれは想像通り却下されてしまった。
しょーがないのでもう少し続けてみることにしよう。


■大虐殺と大屠殺


まずは「虐殺」という日本語を辞書でひいて、次に「屠殺」という中国語を辞書で調べてみた。
 

虐殺 屠殺
むごたらしい方法で殺すこと、惨殺 無差別なる殺人、やたらに無辜の人を殺す

この時点ですでに……ニュアンスが微妙に違うことがわかるだろう。
そして次に日本語の「大虐殺」と中国語の「大屠殺」であるが、これはどちらも辞書には単語として載っていない。つまりこの「大」は、甚だしいという意味の強調として使われていると考えるべきだろう。冒険小僧風解釈でいくと……
 
 

大虐殺 大屠殺
甚だしくむごたらしい方法で殺すこと、惨殺 甚だしく無差別なる殺人、甚だしくやたらに無辜の人を殺す

ということではないかと思うのだ。
となれば、「大虐殺」なのかどうかは「むごたらしい」の度合いで決まることであり、数の問題ではないとも考えられる。つまり、「甚だしくむごたらしく殺された人」がたった一人でもいれば大虐殺で問題なかろう。
ただし、中国側のいう屠殺に「大」がつくと、どこからが「甚だしくやたら」なのかという……数のハナシになってくるのである。
では自分に問いかけてみよう。
 
 

質問 冒険小僧的見解
1人殺されたら屠殺か? 甚だしくやたらは、一人じゃないだろー
2人殺されたら屠殺か? 甚だしくやたらとは言わないんじゃ?
10人殺されたら屠殺か? かなぁ?
100人殺されたら大屠殺か? かもしれん……

ってな具合で、どこからどこまでが屠殺で、どっから大虐殺というのは人それぞれの感覚であり、「×人以上を屠殺、××人以上は大屠殺である」的な明確な定義はヘリ出せない気がするのである。


■遭難者30万人の中身

南京にある記念館は「侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館」というのがその正式な名前なのだが……私は例によってガイドブックも持たずにふらふら旅する冒険家。台北にある蒋介石のメモリアルホールが「中正記念堂」なのか「中正祈念堂」なのか毎回思い出せず、「国父記念館」のことを「中山公園」と呼んでいる私に、こんな長い長い中国語名が覚えられるわけがない。(←なにエバってんだか)
行き方さえもよくわからないので、街の人に尋ねることになるのだが
「南京大虐殺博物館はどうやって行くの?」
「南京大虐殺記念館は何番のバスで行くの?」
どっちでもちゃぁーんとみなさまに通じるので、私は南京大虐殺記念館でいいことにしていた。
しかも街のみなみなさまは
「あ、江東門記念館ね」
などと、また新しい呼称を作ってくれたりもするのである。
私のような無礼な旅人に限らず……地域住民の方々でさえ、ながったらしい正式名称では呼んでくれていないのがゲンジツなのであった。

侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館の入り口には、でっかい文字で
遭難者300000
と中国の簡体字、英語、日本語で彫ってかかげてある。

8って3に限りなく似てるよね〜次の「捏造」には8を遣うのがいいかもよーー

「1937年12月13日、日本侵略軍は南京を侵略占領し、南京の人民に対して6週間におよぶ人事を絶する悲惨な大虐殺を行った。無辜の我が同胞で集団殺戮に遭い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は19万人以上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体を慈善団体の手で埋葬された者は15万以上、死者総計は計30余万人に達した」という東京裁判(1946年5月3日より東京市谷で開廷、1948年11月12日判決)にて、南京地方法院検察処敵人罪行調査報告が提出した検察側文書と受け、この数字を少な目に?表記してあるらしい。
この東京裁判自体、「なんで戦勝国でよってたかって敗戦国を裁けるのだ?反証が認められないってどんな裁判なんだ?」で、インチキ臭さというか公平性を欠いていることは私が見てもわかるシロモノではあるが、後のサンフランシスコ条約11条にて日本国が「受諾」しちゃってるのでどうにもならない。
しかし、その東京裁判でさえも30万人の被害者とは認めていないのを知っているだろうか?
というか、この裁判でしたかったことは戦争犯罪人の断罪であって被害者数の確定ではないから、被害者の数などどっちでもよかったのだ。それが証拠に判決に載っている被害者数が支離滅裂なので見てみよう。

●1948年11月11日の判決
日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。
●1948年11月12日の判決
6〜7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害された。訴因55(軍隊並ニ俘虜及ビ一般人ニ対スル条約・保證尊守ノ責任無視ニヨル戦争法規違反)で松井石根・中支那方面軍司令官が有罪。

まず、なんで同じ事件の被害者数がかたや20万人以上だったり、かたや10万人だったりするのだろう
「はてな?」
考えてみるのが普通であろう。
しかも30万人と「言い値」が通ってしまっているようじゃ、なんじゃこり?と私が唸ってしまっても仕方あるまい。

「遭難者」というのはもちろん、日本語でいう「おぉーいどこへ行っちゃったんだぁ。消息不明だぁ」という意味の遭難ではない。災難の「難」に遭ってしまった犠牲者という意味である。
さて、中国側が言っている屠殺された犠牲者というのは

1)戦闘に参加して戦死した国民党の兵士 
2)さっきまで国民党兵士だったが、ゲリラ活動のために軍服脱いじゃったという便衣兵が捕まって処刑 
3)さっきまで国民党兵士だったが、戦意喪失のために軍服脱いじゃったという便衣兵が検挙され審問され処刑
4)もともと国民党兵士ではないが、日本軍を困らせるためにゲリラ活動に参加した市民が検挙され審問され処刑
5)投降した国民党の兵士を処刑
6)戦闘に巻き込まれた無辜の市民
7)婦女暴行致死の市民
8)強奪後殺害された市民
9)南京戦の前の上海戦で負傷し、南京へ後送され治療を受けた後に南京で死亡した兵士

以上をぜぇーんぶひっくるめて「亡くなった人」ということらしい。
つまり殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上という東京裁判の判決を百万歩譲って真実とし、中華人民共和国の言っている30万人遭難者を真実とするとだ、1)と9)が抜けているわけなのでこれが10万人いないといけない。
「蒋介石秘録」という蒋介石おじさんの日記の中にある「南京攻防戦における中国軍の死傷者は6千人を超えた」という記述も
「ま、自分の軍の被害は戦時中のことゆえ、少なく思いたいしそう書きたいわなぁ」
という想像力を働かせるにしても、あまりに少なすぎてこの算数の上では辻褄があわない。だってここで言っている6000人は「死傷者」であって死人ではなわけだから……。
そこで、中華民国で出版されている「中国現代史料叢書=対日抗戦」という、当時の中華民国陸軍一級将校(大将)で、軍政部長(国防省)兼軍事委員会委員長何応欽将軍の書いた軍事リポートなるものに当たってみたところ……。
国軍抗戦官兵傷亡統計表(軍政部軍務局製)
上海・南京戦(第3戦区)
自七七抗戦起至二十六年十二月底止(つまり1937年7月7日盧溝橋事件から1937年12月末迄という意味。「二十六年」というのは民国という年号で、日本でいう「平成」とか「昭和」みたいなもんです)
戦死者 33000
とあった。
3万3千である。10万人に6万7千も足りないばかりか、注釈にあるようにこれは北京〜上海〜南京までの5ヶ月以上にわたる長いスパンにおける戦死者の数で南京戦だけのことではない。
うーーーむ。この誤差を私はどう納得したら良いのだろう?
無理矢理帳尻をあわせるために同じ期間・同じ条件で報告されている、負傷者65340を足しちゃおうかと血迷ったりはしたものの、これだと「殺害されたこと」にはならない

第16師団参謀長中沢三夫大佐大佐の東京裁判での陳述によると「南京は11月下旬より遠く東南戦線の戦死死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香がび漫したる状態なり。これにより生ぜし死者もまた少なからず……入城時、外交部の建物は、大兵站病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁(よう)し、重傷者多し。日々、3、40名落命しつつありたり。これらの処理を、運搬具乏しき当時如何にせしや疑問にして、付近に埋葬せられたること確実なり」。
もし大兵站病院だけで1日平均3、40名死亡したとすれば、その他の鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央医院などの兵站病院を合計すると、1日平均で100名くらいの傷病兵が亡くなっていることになる。
上海の激戦は8月下旬以来約3ヶ月間続いたけれど、陳述にあるように11月下旬から6週間で計算してみるに、42×100で4200人ほどにしかならない。またしても足りないのである。

わからないものはわからないので、いったい中国側が何人の犠牲者だと主張しているのか見てみよう。

【中華民国】
発行年度 資料の名前 書いた人・出したところ 主張する被害者の数
1946年 八年抗戦経過概要 陳誠参謀長 10万人以上 
1952年 抗戦簡史 国防部史政処 10万余人 
1965年 国民革命史 中華民国各界紀念国父孫文誕辰百年 10万人以上 
1966年 抗日戦史 国防研究院 10万人以上 
1968年 中日戦争史略 国防部史政局 10万余人 
1978年 抗日禦侮 蒋経国 20万人
現在使用中 中華民国教科書   数十万人

【中華人民共和国】
発行年度 資料の名前 書いた人・出したところ 主張する被害者の数
1945年 改造日報   43万人
1946年   南京地方院検察処敵人罪行調査委員会 34万人
1946年 人民日報   20万人 
1946年 工人日報   30万人 
1946年 中国抗戦史 舒宗傅・曹聚仁共著 30万人
1947年 人民中国〈日本語版〉   30万人 
1948年 南京大屠殺 南京大学歴史学部 数十万人
1984年 証言・南京大虐殺 南京市史文資料研究会編 40万人
現在使用中  中国国定教科書   30万人

最低10万、実数の最高43万、数十万ということは90万ということもありえる……こんな数字から何をどーわかれと言うのだぁ!
あまりにもバラエティにとんでいるので、こめかみが痛ぁくなってきて……最後には笑いそうになった。


■便衣兵がらみのこと

しょーがないのでとりあえず数のことはしばし忘れて、ここからは戦時国際法(ハーグ陸戦条約)なるものをからめて話を続けてみる。
そもそも戦時国際法は何かというと、平時国際法に対して戦争時に適応される国際法のことで、目的は三つ。
●交戦という手段に人道的制限を加える
●第三国の利益保護
●交戦国が平時国際法のわくを越えて行動する権利を制約

構成としては
●交戦国間の関係を律する交戦法規
●交戦国と中立国との関係を律する中立法規
の二つに分かれる。

私が思うにこれのうち5)〜8)は「そりゃ日本がマズイだろ〜」だけれど、なんで1)と9)が入っているのかは、まったく理解できずに首をひねってしまう。
もともと戦争とは、兵士と兵士の戦いではないのだろうか??しかも9)は「南京戦の遭難者」とは言えないではないか。
2)と3)は軍服を脱げば市民に戻れるのなら、都合が悪くなったら軍服脱いで市民に戻り、勝てそうになったらまた軍服着て戦うという「戦場更衣室作戦?」が「アリ」になってしまう。これが許されるのならば誰だってそうしたいところだが、それではもう無茶苦茶で収集がつかない。
だから当時のハーグ陸戦条約(1899年に締結、1907年に第二回改正)という戦時国際法の条約附属書 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則第1款・第1章・第1条に、「交戦者ノ資格」というのが明記してある。

一、部下ノ為二責任ヲ負フ者其ノ頭二在ルコト
二、遠方ヨリ認議シ得ヘキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト
三、公然兵器ヲ携帯スルコト
四、其ノ動作ニ付戦争ノ法規習慣ヲ遵守スルコト

現代語訳?してみると

●部下について責任を負う指揮官が存在すること
●遠方より認識しうる固着特殊標章装着すること
●公然と武器を携帯すること
●戦争法規慣例を遵守すること

であって、このの四つが交戦者としての資格になる。
この「交戦者ノ資格」があって初めて捕虜になる資格があるわけで、この四つを満たしていなければ……「捕らわれの身」になってもハーグ陸戦法が当てはまらないことになってしまう。
この4つの条件に当てはまる場合は捕虜としての資格が当然あり、第2章の第4条で

●俘虜ハ、敵ノ政府ノ権内ニ属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属スルコトナシ。
●俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ。
●俘虜ノ一身ニ属スルモノハ、兵器、馬匹及軍用書類ヲ除クノ外、依然其ノ所有タルヘシ。

現代語訳は
●俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人又は部隊の権内には属さない
●俘虜は人道をもって取り扱うべし
●俘虜の一身に属するものは、兵器、馬匹及び軍用書類を除けばぜーんぶ俘虜の所有である

となっている。
だからといって、戦意喪失・武装解除が「便衣=平服で軍服着てない」からといって「ゲリラ」=戦争犯罪人として扱い、即座に処刑しちゃっていいのかというと、そこにはどうしても疑問を感じてしまう。
でも「一般市民と同じように親切に扱え」というのまた
「ど〜なんでしょうねぇ、長嶋さん」
ではある。
これに答えてくれる長嶋さんとして第23条というのがあり、禁止事項として
イ 毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト
ロ 敵国又ハ敵軍ニ属スル者ヲ背信ノ行為ヲ以テ殺傷スルコト
ハ 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト
ニ 助命セサルコトヲ宣言スルコト
ホ 不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト
ヘ 軍使旗、国旗其ノ他ノ軍用ノ標章、敵ノ制服又ハ「ジェネヴァ」条約ノ特殊徽章ヲ擅ニ使用スルコト
ト 戦争ノ必要上万已ムヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壌シ又ハ押収スルコト
チ 対手当事国国民ノ権利及訴権ノ消滅、停止又ハ裁判上不受理ヲ宣言スルコト
が挙げられている。

というわけで、5)投降した国民党の兵士を処刑に関しては第2章の第4条に関して大日本帝国側の違反は確定であろう。
しかし、3)さっきまで国民党兵士だったが、戦意喪失のために軍服脱いじゃったという便衣兵が検挙され審問され処刑について第2款・第1章・第23条ハの違反とするのならば、「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵」に引っかかってしまうのだ。
つまり、一般市民の避難場所にもぐりこんだ元国民党兵士が「武器や軍服を捨てて」はいても、「(投)降を乞うている」というには、戦争中のことゆえあまりにも寛大すぎるのでは……?と。
しかも、元兵士だと分かっていて「武装解除させたんだから」と、特別な名簿も作らずに一般市民に混ぜ混ぜしてしまった安全区の責任者達は完璧な中立法における中立の義務違反でもある。(中立義務に関しては後述

しかし、この時点でも2)さっきまで国民党兵士だったが、ゲリラ活動のために軍服脱いじゃったという便衣兵が捕まって処刑4)もともと国民党兵士ではないが、日本軍を困らせるためにゲリラ活動に参加した市民が検挙され審問され処刑に関して、どうせよという決まりは国際法にない。
というより、便衣兵戦法自体そもそも中華民国の第1款・第1章・第1条国際法違反なのである。
これを見ればわかるように、私に言わせればなんのこたーない。「みんな揃って国際法違反!

さて、みんなが違反してるからそれでよしってことではないが、国際法をお勉強してみたところ
「ゲリラ(便衣兵も含む)の処刑には軍律裁判にてゲリラかどうかの認定が必要ですよ」
とかいう記述に行き当たった。これが明記されたのは1977年のジュネーブ条約追加議定書だが、読者はおわかりの通り、南京大虐殺は1937年の出来事なのである。
また、南京大虐殺当時、戦時国際法にある「〜ヘシ」という制定・執行に違反した場合、制裁などに当たる統一的権力や機関がなく、また罰則も決められていなかったのも事実。ここが国内法と違うのだ。

国際法は国家間の文書による合意の明示としての条約と、国際社会の慣行を基礎として暗黙の強制力をもつ国際慣習法とからなっているので、前の戦争においてゲリラがどのように扱われていたかというのを、国家機関の実際の行動や、国家の意思表明などをモトに国際慣習としてみてみると……「南京大虐殺以前の戦争では、ゲリラはその場で容赦なく処刑」が一般的であった。
だから大日本帝国が
「ゲリラ戦を行った便衣兵については当時の戦時国際法に違反してないだろーが!」
と主張すれば、「まぁ、それはそうなんだけどね……」と応えるしかないわけである。

5)以外に関して、大日本帝国は戦時国際法に違反してなかったみたいね」ということ、9)は話のほか」という主張をしているのであるが……私は便衣兵の処刑が「戦時国際法に違反していないから、大日本帝国は正しい」とか「人道的に正義だ」とか言っているわけではまったくない。
単に戦時国際法という法律に照らしあわせ、違法か合法か……というよりも「違法だと明記してなければ、違法とはいえない」というような検証・解釈を自分なりにしてみた結果
「なんだよ結局みぃーんなで違反なのかよ」
ということを突きとめただけのことである。


■巻き込まれ注意報

さて、今度は6)の戦闘に巻き込まれた無辜の市民というのを考えてみようと思う。これには陸戦規約25条や海軍砲撃条約第2条・空戦法規案第24条にある「軍事目標主義」というのが顔を出す。
ちっとまどろっこしいが読み込んでみるに

軍事目標主義の原則は、防守都市(都市の占領を企図して接近する敵に対し、軍隊が抵抗する)に対しては無差別攻撃が認められる(陸戦規約25条)が、無防守都市に対しては攻撃対象は軍事目標のみに限定され、民間のものに関しては攻撃が禁止される。ただし軍事目標への攻撃で民用物に付帯的な被害が出ても、故意になされたものではなく、また、目標の破壊による軍事的な利益に比較して軽微な場合には違法ではないとされる。

ということだ。つまり「軍事目標への攻撃で民用物に付帯的な被害が出ても、故意になされたものではなく、また、目標の破壊による軍事的な利益に比較して軽微な場合には違法ではないとされる」の部分が6)がらみ。
要するに「軍人1000人撃ち殺そうと思って戦っている途中に、偶然そこを通りかかった1人が巻き添えになった場合は不法虐殺ではない」というような意味は理解できそうだ。
しかしながら、前出の「なにが大屠殺か」と同じで、またまた「どっから軽微でどっから甚大なの?」という玉虫色の定義なのであって、それこそ「ここの現場ではえーっと何人の軍人がお互いに対峙して、何人の無辜の市民が巻き込まれましたかね?」みたいなのを、すべての無辜なる市民殺害現場で調査して個別に判断しないと違法も合法もないのだが、そんなこたーー60年も過ぎた現在は到底無理なことなのである。

法律とはなぁんの関係もない話ではあるのだが、今回こうやって戦争のことをいろいろ勉強してみるにあたり
「うわっ、世の中ってそういうことになってたのか!」
愕然としてしまう事実にぶちあたったのである。
たとえば、今現在「冒険国」という国で戦争が起きており……「小僧国」の兵隊が占領しようとしていたとしよう。そして、あなたは冒険国の無辜なる市民、とにかく避難せねばならぬと難民収容所へ家族連れ立って向かっている途中だ。
ざっざっざっ
ものすごい足音ともに小僧国の兵隊達がかどを曲がってやってきたら、あなたはどうする?
私の場合は自分が兵士でなくとも……敵国の兵士がそんなにてんこ盛りでこちらへ向かって来たら、単におっかないから間違いなく逃げる(か隠れる)。
とーこーろーがー!!
「日本軍人を見て急に逃げ出す等の行為をしたために、背後から撃たれたケース」というのが、証言史料には無茶苦茶多いのである。しかもこの「コワイから逃げる」は、軍の方々から言えば「敵対意志あり」で「市民側の落ち度」という括りになり、当然違法虐殺とも解釈されないらしい。
ビビったからといって逃げちゃいけない。
というわけで、今後私は旅先でも日常ででも、戦争に巻き込まれたあかつきには、敵国だろうが関係ない国だろうが自国だろうが、軍人を見かけたら
「はろーーはろーーみなさんお元気?」
フレンドリーな声をかけて手を振ったりなんかしてから、彼らのそばを通り過ぎるようにしようと心に誓った。
いやぁ、「ぼうけんこぞう」読んでると、危機管理の知識まで身についちゃって役に立つよねぇ〜(←たたねーよ!)


■中華パラドックスその1〜宣戦布告〜

よくこの日中戦争に関して
「宣戦布告もせんと、戦争を始めるなんて日本は卑怯だ!」
なる意見がある。
これを聞いていつも、うーーーーーんと唸ってしまうのは、この指摘が南京大屠殺という事件を考えるにあたり……もっともややこしい中華パラドックスというか、中華マジックの原点をぐっさり突いているからなのだ。
イキナリ手品だの魔法だの言っても納得してもらえないと思うので、とりあえず宣戦布告について「誰が誰にしたの?」「誰が誰にしなかったの?」のところを考えてみる。

当時(1937年)の中国では、共産党軍と国民党軍がくんずほぐれつの内戦中だった。
中華人民共和国の共産党軍と中華民国の国民党軍というのは、歴史上三度の「国共合作」なる約束を結んでいる……と中華民国の歴史ではなっているのであるが、第三次国共合作に関しては「はぁ?すでに台灣へ逃げちゃって何言ってんの?」状態であるので、私は第一次、第二次だけを問題にする。
最初の国共合作というのは1924年から1927年であったが、1928年に国民党が共産党に弾圧を加えたがためにパァーになった。この後、1935年8月1日に共産党軍は「亡国の奴隷となることを欲しないすべての同胞よ!愛国の良心を失わないすべての将兵よ」と、国民党軍をふくめたすべての中国人に徹底的な抗日と団結を呼びかけた「八・一宣言」なるものをしている。これを「中国側からの宣戦布告」だと……考えようと思えばできないことはない。
中国語では「宣戦布告」と四文字ではなく、「宣戦」の二文字で同じ意味なのであるが、どっからが「宣戦」なのかかということを調べてみた。言うまでもなく「宣戦」とは、相手国に対して「戦争」の意思を伝えることなのだが、必ずしも相手の国に直接
「あんなぁ、今から戦争しかけんでぇー」
と通達する必要はないようだ。

●戦争へ至る前段階の交渉を打ち切りことを通告する
●期限付きで回答を求める、最後通牒をつきつける
●自国民に「開戦」を告げ、それによって相手の国への通告に代える
といういくつかの方法があり、宣戦は必ずしも相手の国の応諾を得る必要がなく、一方的に言い放ってそのままで十分なのである 。

……となると三つ目の項目により、今の中華人民共和国共産党軍は日本に宣戦布告をしていたのだろう。まぁ。これがこじつけというのであれば……1936年2月17日に中国共産党紅軍が「抗日東征宣言」なるものを出しているので、これで代用?してもかまわないのではないだろうか。

これで中華人民共和国VS大日本帝国の間はクリアーになったものの、実際に上海〜南京戦で大日本帝国陸軍の相手となったのは中国国民党の兵士達。しかも1937年、いわゆる蘆溝橋事件(北士事変とも言う)が起きた7月7日、国民党と共産党は仲間割れの真っ最中だ。
蘆溝橋事件の前の年、1936年の12月12日に起こった西安事件は、映画「宋家三姉妹」にもあったので……知っている人も多いのではないだろうか。つまり、共産主義がだぁーーーっいっキライだった蒋介石おじさんは、目の前の共産党と大日本帝国を比べ
「とにかく共産党をぶっつぶし、大日本帝国成敗はそのあと」
なる作戦だったのだが、満州にて大日本帝国軍により自分の父親を殺されたという恨みつらみ満載の張学良、もう一人の楊虎城(ともに国民党員)が
「共産党を一緒に倒しましょう」
説得に行った蒋介石おじさんを
「いいーーや、先に日本をぶっつぶすのだ。言うこときかないと帰さないぞ!」
驪山というところで逮捕監禁し、周恩来のとりなしや陳美齢のネゴシエイターとしての活躍があり……なんとか釈放になったのである。この西安事件により
「うーーん、しょーがないよなぁー。また共産党と組まないとなぁ」
的な機運が高まったのは事実なのたが、相変わらず国民党は正式な合作宣言もせず、うねうねごねごね、くねくねして踏み切らずにいたのである。
共産党はあからさまに最初から「日本を討つ」と言っているので、大日本帝国からすれば「敵とちゃんと認定できる」のだが、国民党軍は「共産党を最初に討つ(=大日本帝国軍は今討たない=一緒に共産党を討つ)」つもりだったのが、「やっぱり日本を最初に討とうかな」などと、くるくる言い分が変わるため……日本から見ると「中華民国さんよぉー、おめーたちゃいったい敵なのか?味方なのか?わっからんぞなもし」と、いつの時代なんだかどこの田舎の人なんだかまったく不明な口調で思ってしまう状態であった。
そんな状態のまま蘆溝橋でごちゃごちゃしはじめ、第二次国共合作に至る間に
 

1937年7月28日 大日本帝国軍の飛行機が通州の近くの中国軍兵営を爆撃
1937年7月29日 通州にある冀東 (きとう) 防共自治政府の保安隊が、そこにいた日本軍人や居留民223人を襲撃・殺害した(通州事件)
1937年8月9日 上海共同租界モニュメント路で、大山勇夫中尉と斎藤一等兵が「何者とも知れぬ中国人」に惨殺される
1937年8月13日 大日本帝国軍が兵を起こし、最初の戦端がひらかれた。
1937年8月14日 抗日自衛を宣言した国府軍による上海爆撃
1937年8月15日 日本軍による初の「渡洋爆撃」が荒天をついて、上海・南京に対して行われ、それからも毎日空襲の連続となる。
蒋介石を陸海空三軍の総司令官として、中華民国にも大本営が設置され、全国に総動員令が下される。
1937年8月23日 大日本帝国軍は十倍以上の中国軍を相手に苦しい戦いを最初のうち続けていたが、ただちに松井大将を総司令官として、第三師団、第十一師団を派遣。この日に応援軍が上海に到着

すでにこういうことになっており、1937年9月23日、西北の中国共産軍(紅軍)を国民革命軍第八路軍として国民軍に編入、その総指揮を朱徳に委ねて正式に国共合作となったのである。
そして日本に対して宣戦をし、国民党との合作も果たした共産党軍は、大日本帝国との戦いである上海〜南京戦に関して一度たりとも顔を出しておらず、いったいこの時期彼らは何をしていたんだろう?と私なんかは不思議に思ってしまうし、中華民国の人達に言わせると
「あいつら、国民党を大日本帝国と対峙させておいて、自分たちはコソコソ国民党を討っては勢力を強めていたのだ」
ということになるらしいのである。(……が、この話はとりあえず今の流れとは関係ないので置いておく)
では、肝心の中華民国から日本への宣戦布告はあったのだろうか?
−−−−−無かったのである。
国民党政府が1941年に宣戦布告したのは日本、ドイツ、イタリアの三カ国に対してであるが、いわゆる日中戦争に関しての宣戦は布告は出されていない。
今の中華人民共和国からは宣戦布告アリ、当時の中華民国からは宣戦布告ナシということはわかった。

日本がもし中華人民共和国を国として当時認めていたのならば……前にも書いた通り「宣戦布告は一方的言いっぱなし、タレ流しでかまわない」という法則において、「もうすでに売られちゃった喧嘩(戦争)なんだから、そいでいいじゃーん」ということになる。
しかし、宣戦布告がアルかナイかがものすごぉーーく重要なのと同時に、「宣戦布告したのはされた国にとって国か?」という観点もまた重要なのである。
なぜ宣戦布告が重要なのかというと……宣戦布告をしないで戦を始めると、「戦争」ではなく、事変、騒乱、内戦と見なされ、戦時国際法でこまごまと決められている約束事が全部パァになる。
ハーグ陸戦法の「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」などのお約束も、「そんなの初手からなーし!」ということになってしまい、すべては「お互いの(国の)法律なり慣習なりで、勝手にケリをつけなさい」的な話になってしまうのである。
東京裁判で陸軍省軍務局長の武藤章が
「日本は中国(中華民国のこと)に宣戦布告をしていないから捕虜は生じないし、従って捕虜虐待もありえない」
なんか言っちゃってるのはこのロジックがためなのだ。私はこの武藤さんが「ちょっとばかりイッちゃってる人」なのだとばかり思っていたら、それがそうでもないらしい。
つまり、蘆溝橋で起こった「北支事変」、は1937年9月8日に大日本帝国により「支那事変」なる名称に改められており、当時の大日本帝国がこの一連の争いを「日中戦争」とは呼んでいなかったところから
●今の中華人民共和国・共産党軍が出した(と見てとれる)宣戦布告は、「国の出した宣言=宣戦布告」ではないから意味をなさないと無視されていた
●この時点での日本にとっての「中国」とは、すなわち中華民国・国民政府」であった(っつーか中華人民共和国は建国していないので、当たり前っちゃー当たり前だけど)
●この戦は宣戦布告なき「事変」であり、戦争ではない
という三つの日本的見解が判明する。

つまり当時の中華人民共和国の宣戦布告は
「よーーし、私は冒険小僧国として日本に宣戦布告だぁ!」
今日、私が勝手にほざくようなもので
「はぁ?だから?」
完璧に無視され、黙殺されて鼻で「ふんっ!」といったことでしかなかったのである。
しかし、ここからがややこしくて不思議で、理解のムズカシイ、中華パラドックスの醍醐味的な部分なのであるが、中華民国人に言わせると
「1937年から八年間に渡る抗日戦争という風に学校で習ったのであるから、あれが八年間に渡る抗日事変などであったわけがない。中華民国は1397年に宣戦布告を行っているはずだ」
ということらしいのだが、史実を調べるにそんな事実はどこにも存在しない。
となると……?
限りなく黙殺されるべくほざかれた「今の中華人民共和国で当時の共産党の出した宣戦布告」が、第二次国共合作として正式に国民党が発表した時点の1937年8月23日の時点で、「引き継がれている」とでも考えなければならないのである。
うーーむ、そんなのありか? 
私なぞは当然思うのであるが、歴史は国それぞれにいろんな側面があるのだろう。

つい数年前に「外モンゴルは中華民国の領土だけれど、まぁしょうがない。モンゴルっていう国に分けてやるとするか」などとすっとんきょうなことを言ってみたり、「誰がなんといっても南京が首都!」だとか非現実的なことをいまだに憲法に書いているのには、こう言っておくしかないのっぴきならない理由があり……これが中華民国の主張する、「史実」ということになっているるのだ。
私などは背景を知っているだけに
「へぇ、そうなんっすか」
としか対応のしようがない。
話せば長い長い物語と都合が後ろにあることゆえ、どなたさまも、どうか大目に見てやって欲しい。

中華民国の不思議な史実や解釈はともかくとして……というより、今は日本と「中国」の窓口が中華人民共和国なのであるから、現在の中華民国のことは放っておいて、話を前の中華民国へと戻すことにしよう。
ただし、これが事変でなくて戦争であった(=宣戦布告をしていた)と当時の中華民国がしていたり、1949年にジュネーブ諸条約共通第2条によって規定された「事実上の戦争(de facto war)」を当てはめ、「事実において敵対行為があれば、当事国が戦争状態であると承認するしないにかかわらず戦時国際法を適用する」ということにするのであれば、もーー、便衣兵以外にもそれこそスゴイ勢いで戦時国際法の違反オンパレードなのである。

さて、当時大日本帝国が正式に「中国」として認めていた中華民国に対して、宣戦布告をしなかったのは事実。
そこで「なぜしなかったのか?」という疑問であるが、蘆溝橋事件のあった1937年7月、すでに宣戦布告に関して山本五十六海軍次官と梅津美治郎陸軍次官で
「両軍部とも宣戦布告はみあわせませう」
という意見の一致をみていたのである。
その理由は「宣戦布告をしたとなれば、外国から大日本帝国への軍需物資の輸入が甚だしく不自由になる」というもの。
なんじゃそりゃー!
宣戦布告をして正式な戦争になれば、第三国には中立国としての義務というのが出て来る。
中立の義務とは黙認・避止・防止の3つでそれぞれ、交戦国の行為により中立国やその国民に損害が生じても黙認しなければならない(もしこれに報復した場合には中立国ではなく交戦国となる)、軍需物資や資金・情報を交戦国に与えない、交戦国による中立国の軍事利用を防止する義務をいう。
つまり軍事物資を自国だけではまかなえない、大日本帝国と国の名前には「大」の文字があるくせに、事実は小国という国なりの苦肉の戦略、苦肉の屁理屈なのである。

で、その結果がどうなったかというと……大日本帝国は今まで通りイギリスやアメリカから民用物資と軍用物資の輸入を続けることができたのだが、中華民国も外国からの援助を同様に受けていられたのだ。(←大日本帝國はホントにここまで考えてたのか?考えてないに100万点)
大日本帝国は
「宣戦布告はしないもんねー、第三国は事変とでも戦争とでも好きなようにとっていいけど、どっちが得かよーく考えよう」
などと、向こう見ずな脅しともとれる見解を陸軍省法務局軍事課が言い放っちゃったりして、ぐちゃぐちゃになっていくのである。
大日本帝国に対して
「コイツ、邪魔くせーー」
なる敵意をもっていたソ連とアメリカが中華民国に対して「ガンバレぇー!」と、軍事的な援助をおおっぴらに始めてしまうとも知らずに……。
もし、これが「戦争」であったならば、アメリカもソ連も戦時国際法による「中立の義務違反」ということで、轟々たる非難をあびていいのだが……日本からするとなにせ「事変」で戦争ではないがために、アメリカもソ連も「なんら悪いことしてないもーーん」なる言い訳が、正々堂々とまかり通ることとなった。
「戦時国際法のこまごました条件の第三国への適応」を避け、避けられもしない交戦国間の条件を避けようとるかわりに、「卑怯だ!」どころか大日本帝国は、ぐいぐい自分の首を絞めるハメになってしまったように見うけられる。

それともう一つ。
正規の戦争によって他の国を合併したり消滅させることを戦時国際法では「占領」という、正規の戦争ではない場合には占拠という。また、この行為を正規の戦争の場合は「征服」といい、正規でない場合は「侵略」と呼ぶ。
たとえば大東亜戦争に関して大日本帝国は宣戦布告しているので、各国を占領していたことにはなるが占拠はしておらず、征服はしていたが「侵略していた」とは戦時国際法だけに基づけば言うことはできない
しかし、南京戦に関して日本からすれば最初は占拠のつもりであったのだが、便衣兵なるゲリラ作戦頻発でこれを武力鎮圧しないわけにもいかなくなり、まるで占領地における征服者もどきのことをせざるを得なくなっている。ここが言ってることとやってることちぐはぐの始まりなのである。
「大日本帝国は中国に対し、侵略や征服の野望を持っていた」
と中華民国人からよく聞かされるのだが、そう言われるわりには大日本帝国の軍備が手薄、戦略もお粗末、ハタから見ているとルートの点などでは蒋介石おじさんにまんまと手玉に取られているとしか思えない。中華民国に対して最低十二回の和平提案を行ったというのも不思議きわまりなく
「ねぇ、大日本帝国って宣戦布告もへったくれも、戦争する気自体ホントにあったの?」
と首をひねりたくなるような感じなのである。
その意味で「支那事変って本当に侵略が目的だったのかな?
どうも納得いかない気分にはなるが、戦時国際法の観点からいえば南京戦なぞは疑う余地のない「侵略」であり、この部分だけに限っていえば……宣戦布告さえしておけば言われる筋合いはなかったかもしれないのである。

そしてはっと我に返って考えてみるに、戦勝国が敗戦国を裁くというキナくさい東京裁判にてではあるが、大日本帝国はは国家間の文書による合意の明示としての条約である戦時国際法をモトに、捕虜のあつかいがどうちゃらと言われて軍人がたくさんの裁かれる結果となった。中華民国・大日本帝国とという当事国が宣戦布告していないのにも拘わらずである。
つまり、当時の決まり事である「宣戦布告してなければ戦争」は通じなくて、南京大虐殺が起こってから12年後の法律をモトに裁かれたことになる。これはおかしいではないかー!
当時遊郭へ通っていた旦那衆を、現在の「売春禁止法」で裁けるのか?
なる屁理屈は置いておいても、とにかくハタからみると、「宣戦布告はあった」になっちゃってるというか、「大東亜戦争」とひっくるめて戦勝国に裁かれちゃってるのである。
「8年間の戦いに関して宣戦布告したのは当時、国として認められてはいなかった現在の中華人民共和国・共産党であり、中華民国ではないのに、なぜか引継ぎが行われている!」ということを、是非覚えておいてほしい。
ここがいわゆる、中華パラドックスの入り口なのだから……。


■中華パラドックスその2〜ごめんなさいの行方〜

ハナシは突然、戦争終結の部分へぴょーーんと飛んでいくのであるが……今現在、日本国は中華人民共和国とも、中華民国とも戦争をしていないわけなので、どこかで「ケリ」がついているはずなのである。
そしてそのケリとは、どんな風なケリだったのかなぁというのを調べてみる……までもなく、ポツダム宣言(1945年8月15日)受諾で無条件降伏、その後のサンフランシスコ講和条約(195)年9月8日サンフランシスコで署名、1952年4月28日午後10時30分発効)である。
そこで、私はこのサンフランシスコ講和条約を隅から隅まで、ずずずいーーっと眺めまわして勉強してみた。
第十四条に「賠償、在外財産」というのがあって、 その第一項に
「戦争中に生じさせた損害と苦痛に対して賠償を支払います。でもね、今は日本自体がやっていくのにいっぱいっぱいだしぃ、資源も足んないから、すべての損害と苦痛に対して完全な賠償や他の債務を履行するには充分じゃないわけよ」
などと言い訳しつつも
「でもねー。日本国によつて損害を与えられた連合国が希望する場合は生産、沈船引揚げその他の作業におけるお仕事をしまーす。こういうお仕事にかかるお金や賠償や損害の修復のための費用をみなさんに補償することめに、それぞれすみやかにお話合いをしましょー。そうしたとりきめが、他の国のみなさんにさらなる負担をかけてもいけないしね。あ、それと、原材料からの製造が必要とされる場合だと外国為替とかの負担が日本国に課されると困るから、原材料はとのお国で提供してちょーだいな」
ということが述べられている。
なんだよーー、それだけかよーとは思うもののこれには続きがあって
「日本国及び日本国民、日本国又は日本国民の代理者又は代行者、日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体のすべての財産、権利及び利益でこの条約の最初の効力発生のときにその管轄の下にあるものを差し押さえ、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する」
とある。
ま、無い袖は振れないけど、とりあえずあるもの適当に持ってちゃってくださーい。
ということだろうか。
なにせ戦に敗れたヨレヨレの国が賠償するわけで「おーーっ、豪華ぁ!完璧でたっぷりぃ」とはお世辞にも言えないけれど……いわゆる「賠償します」とは言っているわけだ。
そして、当然のことながら
「なに言ってんだよ、そんなことで許されるわきゃねーだろ!」
ということであれば、条約にサインしてはイケナイのである。
さて、中華民国はサインしているだろうか?

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本条約の批准国は、現在次の46国である。(アルファベット順)
アルゼンティン(ARGENTINE)
オーストラリア(AUSTRALIA)
ベルギー(BELGIUM)
ボリヴィア(BOLIVIA)
ブラジル(BRAZIL)
カンボディア(CAMBODIA)
カナダ(CANADA)
チリ(CHILE)
コスタ・リカ(COSTA RICA)
キューバ(CUBA)
ドミニカ共和国(DOMINICAN REPBLIC)
エクアドル(ECUADOR)
エジプト(EGYPY)
エル・サルヴァドル(EL SALVADOR)
エティオピア(ETHIOPIA)
フランス(FRANCE)
ギリシャ(GREECE)
グァテマラ(GUATEMALA)
ハイティ(HAITI)
ホンデュラス(HONDURAS)
イラン(IRAN)
イラク(IRAQ)
ラオス(LAOS)
レバノン(LEBANON)
リベリア(LIBERIA)
メキシコ(MEXICO)
オランダ(NETHERLANDS)
ニュー・ジーランド(NEW ZEALAND)
ニカラグァ(NICARAGUA)
ノールウェー(NORWAY)
パキスタン(PAKISTAN)
パナマ(PANAMA)
パラグァイ(PARAGUAY)
ペルー(PERU)
フィリピン(PHILIPPINES)
サウディ・アラビア(SAUDI ARABIA)
南アフリカ連邦(SOUTH AFRICA)
スリ・ランカ(SRI LANKA)
シリア(SYRIAN ARAB)
トルコ(TURKEY)
グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国(UNITED KINGDOM)
アメリカ合衆国(UNITED STATES OF AMERICA)
ウルグァイ(URUGUAY)
ヴェネズエラ(VENEZUELA)
ヴィエトナム(VIET NAM)
日本国(JAPAN)
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うっぎゃーーー! 署名してないじゃないかっ!
どうなってるんだ?
あたふたと探してみた結果、みつけたのが「日本国と中華民国との平和条約」という日華平和条約である。
1952年4月28日に台北で署名、1952年8月5日に発効となっていて、「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了」という第1条によって1952年8月5日にカタがついている。
「この条約及びこれを補足する文書に別段の定めがある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ条約の相当規定に従つて解決するものとする(第11条)」
とあるので賠償その他がそっくり当てはまるのではあるが……最初の頭痛は第十条の
「この条約の適用上、中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものとみなす。また、中華民国の法人には、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令に基いて登録されるすべての法人を含むものとみなす」
の太字部分。
1952年という日華平和条約締結のこの時点で、大日本帝国は日本国憲法(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)でもって日本国という名前になっていて、中華人民共和国は大陸側で建国を宣言しちゃってるわ、中華民国は内戦でボロボロになって台湾へ逃げちゃった後なのである。当然、当時の南京市民とか南京で壊れちゃったモノとかは、中華人民共和国の手の内にあり
「日本国としては中華民国を中国としてこれからも付き合っていきまーす」
とは言っているものの、中華民国としては
「そう言ってくれても、モノも人も全部大陸でさぁ、弁償のしてもらいようがないがなー」
という状況での「はいはい、わかりました」サインだったのである。
まぁ、しかし、どんな理由があるにせよ、日華平和条約という文書にサインしてしまった以上、中華民国との間は「これにて一件落着」であるはず。
ところがところが……ご存じのように、日本国は
「にっちゅーーこっこうせいじょうかっ!」
なるものをはじめた。
1972年9月29日の北京にて、「まっ、そのぉ〜」の内閣総理大臣田中角榮、「うぅぅ、あぁぁぁ、え〜」の大平正芳外務大臣、中華人民共和国国務院総理の周恩来などよって、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(いわゆる日中共同声明) 」なるものに署名したわけである。この時の周恩来の言葉「前事不忘、後事之師(前のことは忘れず、後の師としよう)」は今でもなにかっていうと引き合いに出されるのである。
この声明の2番目と3番目
「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する 」
というのは、みもふたもなく言ってしまえば「中華民国はもう日本国に要らないよ、ポイっ」なのだ。
そして、注目すべきは5番目の声明で
「中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」
宣言しているのである。
それなのに「ごめんなさいが足りない」だの「賠償が済んでない」だのと宣う中華人民共和国には
●しのごの言う前に声明文読んでくれ
●都合のいいときばっかり「引継ぎ」せんと、「ごめんなさい」も引き継いでくれ!
を伝えよう。
そして日本国には
●ぺこぺこ謝る前に声明文と前事不忘、後事之師という言葉を思い出してくれ
●「その件に関しては両国間でカタついておりますので、ODA問題、共産党不人気とは別です」とか「後の師とするためにも、唯一の被爆国・日本国としては、核核兵器を作っている国には援助できません」と言ってみたらどうか?
の二点を伝えたい。
……と、ふと気づくと論点がズレにズレまくっているので修正して、パラドックスの正体をまとめてみる。
★その場所とその国民が中華民国であるときに起こった戦争について、中華人民共和国という引継ぎのしっかりできていない国が日本国に対してやいのやいの言っている
★その結果、直接交戦した兵隊さん達は現在日本国が国として認めていない中華民国にいて、いわゆる市民だった人々は我こそは中国の後継者なりと主張する中華人民共和国におり、事件が発生した南京は中華人民共和国にありながら……中華民国の現在の首都だったりする
★普通なら「メンツ」をとても大切にする中国人のことゆえ、「我が軍の兵士がいともたやすくバッタバッタと大日本帝国軍にヤラれてしまいました」ということは……できることなら世界に向けて大宣伝したくないことのはずなのに、ヤラれたのは「我が共産党軍」ではなくて「国民党軍」なので言いたい放題でもメンツは決して潰れない
★中華人民共和国は「我が同胞の悲劇」とか言うわりには、台湾総統選が近づくと台湾海峡で軍事演習をしたりする

南京大虐殺を考える上で、この「にっちゅーーこっこうせいじょうかっ!」は中華パラドックスを引き起こし、異常なまでにややこしく「不正常」な状態を作り出しているのであった。
 


■サジなげ人口調査

さっきから、やれ日本は便衣兵に関しては戦時国際法違法じゃないだの、でも捕虜の殺害はイケナイが、戦争に巻き込まれちゃった人は大変ご愁傷さまだが虐殺にはならない場合もあるだの、宣戦布告をしなかった日本が最悪だの、でも侵略戦争だの、果ては田中角榮と蒋介石が重罪だの……といろんなことをばらばらに言い散らかしていて
「いったいオマエは誰の味方なのだ?」
と思っている読者も多かろう。
はっきり言おう、私は誰の味方でもどこの国の敵でもない。
何がどう悪くて、どーだったからこう捻れたのか?
ということのみが知りたくて、法律学者でも歴史学者でもないのにひーひー言いながらお勉強しているにすぎない。
お勉強の過程で「大屠殺の明確な数での定義はヘリ出せない」ということにも、屠殺という定義において数は重要ではないという結論には行き着いた。
そこで
「大日本帝国は南京で30万の無実の人々を屠殺しました」
というのと
「大日本帝国は南京で無辜の市民とゲリラ兵と捕虜を屠殺し、交戦資格のある兵士と戦って戦死させました。そこへ一ヶ月前の戦で負傷し、治療の甲斐なく南京の病院で亡くなった兵士を足すと30万人になりました」
というのでは、世界各国が思い描く「大日本帝国のイメージ」はまったくちゃうやんけー! という主張をして来たのである。
でも……
「大日本帝国は戦争中に無辜の市民と捕虜、交戦資格のある兵士を屠殺しました。そこへ一ヶ月前の戦で負傷し、治療の甲斐なく南京の病院で亡くなった兵士を足すと30人でした
と書いて読んでみるに、30人に戦死の兵士と傷病兵の死亡が入っていたら戦争中のことゆえ「だからなんだってんだ?」になってしまう。
やっぱり数も大切だ!
一回はヘタれたものの思いなおし、再度調べ始めたのはいいが、もーーーーーーーーーてーーーーーーんでわからないのである。

最初に試みようとしたのは
南京攻略直前(1937年12月)頃の南京の人口−占領後に難民区に残っていたという20万人=被害者数
という算数であるが、中華人民共和国側の言い分である「交戦資格のある兵士も遭難者」に従うのであれば、
南京攻略直前(1937年12月)頃の南京の人口+国民党が参戦した兵士の数−占領後に難民区に残っていたという20万人−国民党の生き残り=被害者数
ということになる。

しかしはっきりしていることと言えば、戦争が起こる前まだ南京が中華民国の首都だった頃、裕福な人たちも避難せず、国民党の行政の人たちも勢揃いしており、出稼ぎの人たちも平和に出稼ぎをしており、上海からの国民党の軍人もまだ来ていなかった……その時の南京の人口は100万人であったということのみ。
あとはもうてんでんばらばらである。

【南京安全区国際委員会委員長・H・D・ラーベ(シーメンス社員)】←ドイツ人
なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?(1937年12月6日)
約20万人(1937年12月17日)
約20万人(1937年12月21日)
約20万人(1937年12月27日)
約25万〜30万人(1938年1月14日)
約25万人、増えた5万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ(1938年1月17日)

【アメリカ海軍無線 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛】
市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと。 (1937年11月27日)
長江岸へ通じる邑江門は混雑している。 おそらく今日行われた南京城内に対する爆撃によって流出者はさらに増えることになろう。(1937年12月4日)

【中華民国・王固盤(警察庁長)】
南京には中国人がまだ20万人住んでいる(1937年11月28日)

【南京安全区国際委員会書記長・L・C・S・スミス(金陵大学教授)】←アメリカ人
22万1150人(『南京における戦争被害』1938年3月調査)

【M・S・ベイツとW・P・ミルズ】←アメリカ人
南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにも関わらず、25万が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まって さらに悲惨なめにあうことになった。 (南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告 1938年2月18日)

【中華人民共和国の言い分】
100万人−20万人(裕福で南京から避難した人達)−20万人(重慶遷都にともなって移っていった国民党の行政関係者とその家族)−7万人(出稼ぎに来ていたが、戦争が始まったので帰った人達)+12万人(国民党の南京防衛軍)=65万人
いわゆる20万というのは安全区に居た難民の数であり、安全区以外にもたーーくさんまだ市民が避難できずに居たのである。

うーーーーーーーん。
唸るしかないではないか。一致団結して物事を為すということが苦手とされる中華民族のことゆえ
「さーて戦争がはじまったから、みんなでこぞって安全地区へ避難するわよー」
一人残らず移動したなんてことはまず考えられない。だから「安全地区にいた人々だけが当時の市民人口である」っというのは、賛成できないものの……かといって「では安全区以外にはこれだけいました」という信用のおける資料もない。
私個人としては50戸に1戸の割合で調査したというスミス教授の調査に肩入れしたいところだが、これだって一家壊滅の家は調査対象になっていないわけで「正確」とは言い切れない。

そうか!生きていた人を数えようとするからわからなくなるのか!
鬼の首でも取ったかのように、死体からの推測をしようといい気になるも……
安全委員会や南京特務機関が契約して約4万体の遺体埋葬処理をトラック4台、作業員約600名という大所帯していた紅卍字会とは別に、「崇善堂 」なる慈善団体が
「私たちは十万体以上の遺体を処理しましたー」
というきなくさぁーい報告書を出していて台無しなのだ。
「崇善堂 」の何がどうきなくさいかというと、安全委員会や南京特務機関の記録にまったくこの団体の名前が無いばかりか、主任1人、隊員1人、常雇い作業員10人の4分隊、計40人がメインの集団だというのに、トラックもなしで1ヶ月に10万人も埋葬しているのである。これはもう、コマンドーかスーパーマンか魔法使いのどれかだとしか私には思えない。
「40人ではとうてい人手が足りず、城内では大量の臨時作業員を日当で雇い、城外では現地の農民が遺体の収容、埋葬に協力した」という記述は確かにある。しかし「3万311体の遺体を埋葬するのに約11000円とのべ5〜6万の人手が必要だった」という資料をもとに考えるに、10万人の埋葬をするには延べ15〜19万人程度の人手と35000円くらいのお金が必要だったことになる。紅卍字会は「自治政府(南京特務機関)」から埋葬賃金を1体につき30銭しかもらっていなかったこと、当時の中華民国の警官の月給が3円から5円だったことを考えれば、35000円というのがどれくらい多額のお金だったかはわかるであろう。なのに、なのにである……「崇善堂 」は特務機関からの支払いを受けていない。
「じゃ、なにかい?崇善堂ってーのは、そんな大金持ち大集団だったのか?」
というとそんな資産はどこにも記録がないのだ。別に記録がないからビンボーなんだろうと決めるわけではないが、本当に埋葬をしたのであれば「埋葬したからお金ください」と特務機関に、なぜ申し出なかったという疑問が深まるばかりなので……こいつらうそくせーぜ!という私の見解になる。

そんなわけで、せっかく取り組んだのではあるが、人数に関しては私はきっぱりサジを投げ、科学者とか、考古学者とか、歴史学者のみなみなさまにお任せすることにした。

「遭難者は50万人であった」とかいう映画がハリウッドで作られるというもっぱらの噂だが、映画の中で何人殺されたかなんてどうやって観客に知らせるつもりなのだろう?画面の右肩にカウンターでもつけておくのだろうか?(←あいかわらずクダらない)
まぁ、それはそれとしても……どうか中華人民共和国のみなさま
「我が国の優秀な研究者による綿密な調査によると遭難者は45万人だった」
などとお笑いもお笑いの数字を真顔で出す前に(年々遭難者の数は増えてますからねぇ)、日中共同でも第三国でもいいから……正確な遺体数の割り出しや調査に
「やだよーーっ」
とかいわずに応じ、ハッキリさせちゃってください。12億も人口がいれば遭難者が20万人死のうが50万人虐殺されようが大した違いはないのかもしれないけれど、そんな国は世界にもそうそうないですから。
「日本軍がガソリンかけて15万人の遺体を燃やしたから、15万人の虐殺があった」
とか言って数増やすの……小学生じゃないんだからよしましょうよ。「見なかったからない」が通らないの以上に、「無いけどある」っていうのは笑っちゃうわけですから。



 
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もう少し、つきあってやるか