2001年6月の冒険
 

南京で冒険する

その3


 

■南京における、「イヤなかんぢ」センサー

不思議なことは大好きなのだが、私本人には「霊感」がまったくない。
「あそこに見えるよね」
とか
「あーー、ここってダメ。感じるよね。背負っちゃったのかも、だんだんアタマ痛くなってきた」
などという、非常に霊感の強い友達が私のまわりには数人いるものの、私はといえば
「えっ、えっ、なにが見えるの?(もちろん何も見えないので、メガネかけてみたりする)」
「アタマ痛いなら、バファリンあるけどのむ?(バッグをごそごそ)」
なる反応を毎度やらかしては、思いっきり苦笑されるようなヤツである。

しかし、こういった「霊感ゼロ」のかわりに(っちゃーオカシイけど)、私には物理的で即物的な現象が突然降って沸く。
たとえばポーランドのオフィセンチム(通称:アウシュビッツ)では、足が痛くなったかと思ったら、昼日中にかなしばり。チベットのポタラ宮では、突如風邪をひいて死ぬかと思うほど具合が悪くなって撤収。イスラエルのエルサレムでは貧血になって教会からとっとと出るハメに。
そして、そういう現象が起こった場所を後でよくよく調べると、人がたくさーんたくさーーん亡くなっている場所であったりするので
「ぞぞぞぞぞぉーーーーー、なぜなのだ?」
解せない気分に陥って戸惑ったりもする。
もちろん偶然にその場所で、単に具合が悪くなったということも可能性としては考えられる。しかし、なぜかこういう「具合の悪さ」というのは怒濤のように襲ってきて、数時間するとケロっと魔法のように治ってしまう。まことに不思議極まりない。
だからって「実は私はムー大陸の出身で、マヤの末裔である!」などと、寝トボケたことを言い出すつもりはさーーーらさら無いし、それこそ何の裏付けもないのだが……とりあえず何か普段と違う現象が現れた場合に、「いっぱい人が死んだ場所センサー」がなにかを感知したのではないのだろうか? と考えるクセがついてしまったのだ。

唯一ゲップの出ない場所だった、中山陵、心なしか画像デカイのは民国の呪い

今回の南京への旅でそんな私に現れた現象は、何を隠そう「げっぷ地獄」だった。
相変わらず何かが見えたりするわけでもなし、胃の調子が悪いわけでもないのに、南京へ着いてからというもの……のべつまくなしにげっぷが出るようになったのである。
くだんの弁当におけるおかずの量の凄まじさが、げっぷの理由である……と考えられないこともないが、別に食事の後だけに限らないのだ。朝起きてげっぷ、バスに乗っていてげっぷ、夜眠ろうと思ってもげっぷなのには参った。
しかも
「けっぷ」
くらいの可愛いものが1回ならまだしも
「わしゃ、中国人かい!」
思わずオノレに突っ込みたくなるようなデカイ音のヤツが、ごぇーーーっ。まるで、自分の身体の奥に「雷さま」でも居るみたいな音なのだ。
至るところで、時には何回も何回も続けざまに出るもので……なんともいえず恥ずかしい気分になる。しかし、恥ずかしがっているのは私だけで、まわりの中国人達も同行の中華民国人も
「おっ、食い過ぎか?」
とか言う程度で、気にしている風ではなかった。
「あーーよかった。ここが中国大陸でまわりが中華だらけで」
意味不明な感謝をしてみたりするのである。
このようなげっぷ地獄、別に南京だけに限ったことではない。それこそ台湾の町中を歩いていても、日本でふらふらしていても……時々同じような現象は起こる。でも、電車に乗って移動するとか、その場所から出るとかすれば……それっきりでおさまるようなモノだったのに……。南京では滞在している間中ほとんど毎日、ほぼいつも
「げぇーーげぇーーー」
ブキミな音を発しながらほっつきあるくハメになった。

お堂の天井には国民党の旗が!なんでもいいけど、どうしてこの画像モヤモヤしてるんだろ?

南京じゅうを歩き回ったわけではないから断言はできないが、南京の中で「あまりげっぷの出なかった」場所は、孫文のお墓・中山陵だけだった。
中山陵は言ってみれば山のようなもの。ふもとのあたりでは通常通りに?げぇーげぇーいっていたものの、階段をのぼって頂上のお堂まで行き、ほけぇーっと上から下をかなり長い間眺めていた時だけは、ぴたっと止まってなんともなかった。そのまま中山陵の頂上に住み着いてしまおうかと、無謀なことを真面目に考えたほどである。

 逆に、どこが一番げーげーの極みかというと雨花台烈士陵園(俗称:雨花台)だ。
入口近くにある果物屋で、「桃の品定め」をしていたら
「げぇーーーー、ごぉーーーーー、ぐぇーーー」
ともう、人間の出す音ではないようなヤツが連続で出た。こちらは苦しくもなんともないのだが
「どうしました?」
あまりの轟音絶好調に、お店の人の方がビビっていた。(そりゃそうだ、私でもビビる)
そうこうするうち、もともと重たいまぶたみたいだった、灰色の空がにわかにかき曇り……ゴロゴロっと雷の音がしたかと思うと、ざぁーーーーーーっ。大雨どしゃぶりの開始である。
雨花台というのは日本語で不用意に読むと大変なことになりそうな、「雲光」なるお坊さんが壇を設けて説法を行ったところ、仏が感激して花を雨のように降らせたと伝えられている場所である。
「な、なんでだよ〜。なんで花じゃなくて雨なんだよ〜」
折り畳みの傘を始終持ち歩く私なので、雨ごときに負けてたまるかと歩き出したが、入口にたどりつくまでに全身はびっしょびしょ。それくらいとんでもない雨で、「陵」というからに中山陵ほどではないしても小高い丘。この雨の中登っていくのかと見上げたとたんに
「ひぇーーーくしょい」
今度はくしゃみ大炸裂。
風邪ひいては元も子もないので諦めて帰ることにしたのだが、雨花台とはそもそも何か。
 名前の字面だけみればなかなか趣のある雨花台だが、改めて調べてみるとまぁー壮絶。
ごく近いどころでは「百人斬り」の向井敏明・野田毅、田中軍吉の三名が処刑されているわ、国共内戦の頃は国民党が処刑場として使われていたわ、辛亥革命で亡くなった人達のお墓はあるわ……、明からさかのぼれば魏・呉・蜀の三国時代くらいまで、「お墓」として利用されていた。死人の集合団地みたいな場所だったのだ。

どーーりで……。
ひとり納得したのはいいが、なんでこういうことになるのだろう?
「げっぷ」と死人盛りだくさんの関連、誰か説明できる人と知り合いたい胃ものだとせつに願うのである。


■南京総督府で大はしゃぎ

南京にはいまだ中華民国・総督府が存在する。
えーーっ!
と思うだろうがウソではない。勿論、「観光名所」としての建物にすぎないのだけれど……。
正面ゲートで
「ひぇ〜10元!!中国って生活水準のワリに、拝観料とか入場料が高すぎ!」
ぶーぶー文句を言ったあげくにチケットを買い、ふと建物を見上げれば、建物のてっぺんにはためくのはこの国旗。
似たような色使いと構造の建築物の上に、こういうのが翻る光景を見慣れている私だけに、ちょっとした違和感がむくむくむくっとせりあがってくる。
「台北のホンマモンの総督府なら、タダで入れるのに……」
ゲンキンな私が行きつくのはどうせそんなところなのである。

入口に漂う既視感はなんなんだぁ〜

ほぼ当時そのままに保存されているためなのだろう、中へ入ればまた
「あら?ここって台北じゃないの?」
という錯覚に陥ってしまいそうになるのだが、手の中にある「入場券」の半券にゲンジツに引き戻される。
総督府の建物には国民党が「台湾への脱出」を決めたその会議室だとかがそのまま保存されていて
「4月23日」
でほったらかしになっている日めくりカレンダーなど、見て回るとドキドキしてくる。
このドキドキ感というのは
「あ、あの映画観た、観た!そうそう、この場面あった、あった!」
という、そのセットの中に自らが立っているという、映画村とかユニバーサルステュディオで感じる喜びに非常によく似ている。
「あーー、ここがあの会議室かー、ここでの決定から、鍋釜しょって兵士が台湾へ流れ着くことになったわけね……へぇ〜」
しかも、セットじゃなくて正真正銘ホンモノなのだから、「歴史の証人」にでも成れたような勘違いが出来るのだ。

太平天国のかしら、洪秀全用の玉座清の時代の洋服、胸元、裾の部分の刺繍がスゴイ!

総督府のある場所は、明の時代の初め頃に「漢王府」が置かれた場所で、清の時代には江南と江西地方(両江)の「総督署」となった。その後「太平天国」の洪秀全が1953年に、南京を「天京」という名前で首都に定めてから、ここは「天朝宮」という皇宮として機能しはじめた。
そのため館内には清の時代の衣服の展示があったり、代々の総督の説明があったり、「太平天国」に関する資料があったりと盛りだくさんだ。「自称歴史博士」が同行していたので、あれこれと説明してもらって
「へぇ〜」
とわかったような気分になったのだが、こうして今書いているとほとんど思い出せずにいる。覚えていることといえば
「太平天国の頃は、ものすごい殺戮が繰り広げられたのである」
という程度のことだけ。
情けないが、私の記憶がこれこの通りなので、歴史を深く深く知りたいという目的の方々は、個々自由に研究してくださるようにお願い申し上げて、さっさと次へ進むことにする。

さて、そんなわけで歴史を丁寧にさかのぼって説明することなく、無責任にも時代はぽーんと1912年1月1日。孫文が中華民国臨時大総統に就任したのが、まさにここだ。(良かった、これだけは覚えてられた……)
この年がいわゆる「民国1年」になったわけだが、台湾で「何年生まれ?」と尋ねられて「67年」などと不用意に答えると
「ウソをつくでねっー!」
ボコられる(ウソです)のはこの年号のせいだ。西暦から1911をひいて……私の場合なら「民国56年生まれ」とするのが、誤解がなくていいだろう。
ちなみに中華人民共和国は1949年を「人民国1年」などとしているわけもなく、西暦表示で通している。(←まぎわらわしいっつーの!!)
さて、その中華民国は中華人民共和国民国にとって、現在に至る「踏み石」のひとつなのだ。「今まだどっかの島に存在している」
などということは絶対に認められないことなのであるが、それこそ「清」と同じように、「我が国の前身であった」という認識なのだ。
だから、蒋介石のことはボロクソに言うのが「お約束」とされている、中華人民共和国の人々も、孫文センセイは中華民国という国を創立した「国父」として、尊敬もすれば崇めもするんである。

 しわしわ、ベリベリ大統領宣言
総督府の中で、その孫文センセイの「中華民国大統領宣言書」なる展示をみつけた。金銀財宝は台北の故宮博物館を埋めるほど持って行ったくせに、蒋介石はどうしてこんな大切なものを、台湾へ脱出する際に置いていってしまったのだろう?
写真の中に「小僧らしき人影」が映ってしまっているのは、写真がへたくそな小僧らしいご愛敬なのだが、パネルに対して宣誓書が心持ち右上がりになっているのは……私のフレーミングが悪いからではない。このように展示されているのだ。
そして注目すべきは左端……こんな大切な文書だというのに、ビリっとちょんぎれている!!
なお、パネルのガラス板の中でシワシワになっているのも、私のカメラ技法の素晴らしさによるものではないこと、当然わかってもらえることだろう。
私はこの「南京で冒険する」の中で「記念館の展示がズサンすぎる!!」ってなことをブリブリ言って来たのであるが、自国の前身である国の自国の「国の父」である人の直筆大統領宣言書でさえ、この程度の扱いなのである。なにをかいわんや……
まったく中国って、いろんな意味で大陸的なのだと、思わず感動せずにはいられない。

■西安事件
西安事件については前にもちょっと書いたので説明はしないが、この時の主犯は張学良と楊虎城。楊虎城は事件後刑務所にて暗殺され一家皆殺しになり、これを知った宋美齢が張学良側を手にかけないようにと蒋介石にすがったことはワリと有名ではないだろうか。(私だけか?)張学良はその後国民党の台湾脱出とともに台湾へ連れて来られ、50年あまり「捕らわれ」の身だったのだが、その後ハワイへ子供達とともに移住。中華人民共和国の再三にわたる
「戻っておいでよ、英雄として迎えるからさ」
なる誘いも断り、数年前に奥方を亡くした今も、中国へ旅することもなくハワイに暮らしているのだ。(……というのを、台湾のテレビ番組で観た)
この張学良がなぜ捕らわれの身だったかといえば
「ったく!おまえがあんなことさえ起こさなければ、今頃中華人民共和国なんかなくて……あそこは中華民国だったのだ!」
という、中華民国側の都合である。
が、しかし、これがひとたび中華人民共和国での話になると
「おまえがあのときあんなことを起こしてくれたがために、今の中華人民共和国があるのだ。ありがとう」
になるわけだ。
当然、この「中華民国総督府博物館」にも「共産党軍にとっての英雄!」というふれこみで、大々的に誉めそやされて宣伝されている。
これは内戦だ、国内干渉だと当事者には却下されるのかもしれないが、かたや「英雄」でかたや「裏切り者」。たった一人の人間の評価もこの通りなのである。歴史というのは案外こんなもので、「善悪」で答なぞ出ないシロモノなのではないのだろうか。



 

■もしもし、尻尾出てますよ!

雨の総督府、玄関先のベンチでしっぽ出す

総督府の閉館時間がせる頃には天空が泣きべそ顔になり、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。最後の最後まで孫文の書斎などに執着する同行者に引き回されていたのだが、もうそろそろ出ないとマズイ。
玄関まで戻る頃にはかなりの降りになっていて、折り畳み傘一本だけでは、通りの反対側にあるバス停まで行くだけで濡れてしまいそうだ。
外にベンチがいくつかあり、建物に向かって右側のベンチが木の陰になっている。そこにしばらく座って、雨がやむのを待ってみることにした。

「夕ご飯なに食べよう?夫子廟まで行って、ウイグルバーベキューがいいなぁ」
細い絹糸のような雨をぼんやりとながめながら、脳天気なことを言ってみるも返事がない。
そういえば
「そっかー、ここがあの『私は台湾へは行かぬ、南京にとどまる!』とゴネた将軍が、ずりずり引っ張られていった場所なのよね〜」妄想と想像大爆発で終始大喜びの私とは正反対に、同行の中華民国人は先ほどからなにやら浮かぬ顔。
ナニがあったのだろうか。
「どうしたの?どっか痛いの?」
元気がない=どっか身体の具合が悪い としか考えられない私も私であるが、同行者はとにかくシンプルな人なので、大抵はこの公式が当てはまるのである。
「うーーーん、中華民国って砂上の楼閣なんだなぁって」
同行者はそんなことをぽそっと言う。

「そんなのウソだってわかってるよー」
口ではそう言いながらも
「はい、今でも中華民国の首都は南京です」
なる洗脳?教育をずぅっとずぅっとなされて育っただけに、中華民国人の同行者は、この「ユニバーサルスタジオ化」している「中華民国・総督府」に、なにやら腰砕けになってしまったらしいのだ。
中原をはじめチベットへも行った(行かされたという噂アリ)、内モンゴルへもウイグルへも行った。どこにも中華民国の姿なぞなく、そこは中華人民共和国だと頭では当然理解していた。南京だってそれと同じだと分かってはいたのだろうが、いざ
「今でも中華民国の首都は南京なのですけれど、そこにある中華民国総督府は、入場料払って入る見せ物小屋です」
を突きつけられると
「ほぇ〜〜」
という気分になってしまったとでも言うのだろうか?
私は一瞬
「コイツ、理想主義のおめでたいアホなんじゃねーの?」
と思ったのだが、それがこの人なりの「しっぽ」なのかも……と考え直す。

何度も書いて申し訳ないが、私は台湾に関して……独立しようが、統一しようが、現状維持のままで行こうが、戦争さえなければなんでも構わないといういわゆるノンポリだ。
それぞれの人々がそれぞれに主張することに対し
「なぜそう思うの?」
尋ねて返って来る答には、いつもその人の「しっぽ」が見え隠れする。
本人は気付いていないのかもしれないが、にょきっと生えたしっぽが、配偶者や親や祖父母経由で
「もともと××さんが居た国や場所が、消えてなくなったら可哀想だと思う」
「もともとそこの人じゃないんだから、僕には関係ない」
という気持ちに繋がっていることもあれば、「自らの暮らす土地」への愛着が、「その場所の発展に寄与してくれた人」への情になっている場合もある。逆に、近しいからこその憎悪というのだって考えられる。
どの「しっぽ」も私には否定できないどころか、「そうだよなぁ、それもアリだよなぁ」と思えてしまうのだ。
おまけに私には台湾での選挙権がないのだから、「民主主義だからさぁ、選挙権のある人が多数決で決めればいいじゃん」と思う以外、私に何ができよう。
人はみな太いのか細いのか、短いのか長いのかはわからないけれど、なにかしらの「しっぽ」を引きずって生きているのだと思う。一般の日本人よりも日本に対する愛着が薄く、非国民ともノマドとも呼ばれるこんな私でも、行ったことも見たこともないホンジュラスの人達より、台湾の人達や日本の人達に「親しみ」を感じることは事実なのだから。
私にできるのは、どのしっぽも「ある」ということを単純に認めることであり、引っこ抜いてむしってみたり、なでなでして可愛いがったりすることではないように思う。

雨はあがった。
「さーてと、お腹もすいたしそろそろ行こっか……」
中華民国という国に太くてふさふさしたしっぽを出していた同行者は
「そうだね、国の未来よりも今日のメシ!」
くるくるっとしっぽを丸め、元気よく立ち上がる。それを見た私は
私にはどんなしっぽが生えているのだろう?
ふと、そんなことを考えた。
 
 

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南京大虐殺も読んでやるか