Make your own free website on Tripod.com
2001年6月の冒険
 

南京で冒険する

その2

■侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館

侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館入口←漢字ばっかずっとずっと歴史がらみのお堅い(←どこがだぁーーっ!)話ばかりで、読者の皆々様もさぞかしお疲れのことであろう。教養あふれる、歴史に造詣の深い私なぞは、このまま続けてもなんともないのだが(←よくもまぁ、しゃーしゃーと!自分がイチバンぐったりしてるくせに)、読者のみなみなさまをおもんぱかるに……そろそろ南京虐殺記念館(←すでに名前、定着)へと向かってみようではないか。

小雨しょぼ降るなか、南京駅前からバスに乗って南湖まで行き、そこからヨレヨレのバイク・タクシーを3元で頼み、1985年に開館したという記念館の入り口まで乗り付ける。
まだ敷地に足を踏み入れてもいないのに……降り立ったとたんにどわっと押し寄せる「ヤなかんぢ」は、建物全体が灰色をしているところへ、糸のような雨足が紗をかけているからだろうか。
 
 

日付限定してくれて、ありがとー!建物に向かって左側の入口脇には、巨大な十字架のようなものがにょきっとはえていて、上の部分には
 

1937.12.13
-1938.1

はっきり書いてある。この日付を見た私はひそかに大喜び。というのも、いわゆる「南京戦」というのは、南京において突如ぽこっと始まったわけではなく、上海戦という前段階があったその続きなのであり
「いざ、敵の首都へ!」
という意味での南京であり、大日本帝国軍は上海から放射線のごとく西へと南京目指して進んでいったのだ。
したがって南京線自体を、「いつから」とか「どこから」と正確に区切るのは、諸説あって難しいはずだったのだ。
なのに「南京陥落の日から南京大虐殺が発生でーす」と、中国側がおおっぴらに言ってくれているのならそれはそれで話が早い。
しかもご丁寧にこの巨大十字架は、南京陥落の日12月13日にちなんで12.13メートルあるのだそうだ。

あっちにもしかし、雨だというのに延々と追悼碑が並ぶ、彫刻の森美術館風の庭園が続くのである。碑には平和を願ったり、懺悔したりする日本人の名前や言葉が刻まれているのだが、あまりにあっちゃこっちゃにゴロゴロあって……最後の方は
「あ、またこれか」
彫り込まれた文字を見ることもなく歩き過ぎることになる。
こっちにも
戦死がどわっと並んで勇ましく突撃していく彫刻がほどこしてある、長い長いついたてのようなものもあったのだが……灰色の雨にとけ込んでしまって雨の日にはそのヒサンさもあまり効果的ではない。こういう暗い色の「作品」というのは、ピーカンに青い空でこそそのコントラストにぎくっとするものなのではないかと私は思う。
「ぎえーーっ、彫刻の森広すぎるよぉ。はやく屋内展示場に入りたいよぉ」
傘さしてるくせに文句をタレながら進んでいくと、なにやら半地下のガラス張りケースが見えて来る。
「なんだなんだ?」
と思って近づいてみると、あろうことか発掘現場風なところに骨がごろんごろんしているのである。
うわーーっ、骨をそのまんま頃がしておく展示スタイルってのもスゴイ感覚だな。毛沢東の遺体を剥製?にして天安門に置いたりする人達ならではの感覚なのだろうが、私にはどうしても馴染めない。(←別に馴染む必要もないけど)


■万人坑をめぐる冒険

入口に遭難者300000人!この記念館は、いわゆる「万人坑」というものの上に建てられているらしい。
この旅に同行したのはいつものように中華民国の人なわけだが、この「万人坑」をめぐって面白い話の展開になった。
「万人坑ってなに?」
首を傾げた私に
「万人坑を知らないのか!」
中華民国の人は憤慨した表情になって、私にとくとくと「教科書で習った」ことがらを教えてくれた。
万人坑というのは一万人以上の無辜の市民に穴を掘らせ、穴が出来たところで彼らを生き埋めにしたのだ。南京だけでも7カ所以上もこういった万人坑が存在する」
と。
「生き埋めねぇ……ふぅーーーん」
それが本当だったら、ものすごいことだなぁと思いながら歩いていると、じゃーーん。記念館の館長である朱成山による「講解詞」に「万人坑」の説明があるので、要約して紹介する。
「本館は江東門の「万人坑」遺跡の上に建立されました。1937年12月16日、日本軍はすでに武装解除された中国兵士と平民万余人を、元陸軍監獄院に監禁し、夕方、江東門に連れだし、民家に火を放って照明とし、突然機関銃を人々の群れにめがけて猛烈に掃射しました。被害者は叫び声をあげながら相次いで血だまりの中に倒れていきました。遺体は入り乱れ、道をふさぎ、江東河にいたるまで死体でびっしり覆われました。数カ月がたち、気候が暖かくなったので死体が腐乱し、始めて南京の慈善団体が遺体一万余体を収め、近くの大きな二つの穴に埋葬しました。これを「万人坑」といいます。ここには1998年4月30日以後、新たに発掘された遇難者の遺骨が展示されていて、7層に分けて並べられています。表層には20体余り、420平方メートルには約2800体の遺骨があると見積もられています
わはははは。何が生き埋めだ!慈善団体が遺体を埋葬した穴だって、中華人民共和国でさえ説明しているじゃないか!
笑っちゃうのである。
しかも「約2800体の遺骨があると見積もられています」って、どこが「万人坑」なのだ?
まぁ、これがいわゆる「漢字の国」の人々であるのなら、「万=かなりたくさん」という風にとることもないではない。
が、しかし英語の説明を見るに「万人坑」の直訳として「Ten-Thousand-Person Grave」って明記されちゃっているではないか!
万里の長城はLong Wallと訳しておいて、万人坑をTen-Thousand-Person Graveとは卑怯だ!
……と私は大まじめに情報操作を疑うのである。
英語を理解する人にとって300-Year-old が30歳でないのと同じことで、Ten-Thousand-Personはなにがどうなっても「たくさん」の意味なんかではなくて10000人という意味になる。
7200もサバ読んではイケナイのである。中華民国と中華人民共和国は7200×7=50400人もサバ読んでまーす!という根拠のない主張はしないでおくが、「どうして犠牲者の数が毎年増えていくのか」ということを考える上での、大きなヒントにはなるハズだ。

「南京・鼓楼医院がアメリカから輸入した骨密度計で測定した結果を、法医学所に記載された骨密度値と照らし合わせた結果遺骨が地下に60年埋められていたものと測定されました」という説明は理解したので、記念館の中でその現場をカガラスケースで囲って見せ物にしてないで、
2800体の遺骨があると見積もられています
なんて見積もっちゃってないで、ちゃんと掘り起こして数えてくれ。
そして「アメリカから骨密度計」を輸入するのはいいが、研究者も第三国から輸入して立ち会いをさせてもらえると更に信憑性が増す。それと二塊の大腿骨だけを調べるのではなく、一番下の七層目にあるその骨も放射線測定で全部調べてくれ。いや、別に真実が明らかになると困る中華人民共和国のお金を使わなくてもいいから、真実がわかるとホッとするはずである国のお金を使うか
「なに?ODAだ?それはこの調査をして事実を明らかにしてからだ!そーでなきゃびた一文出さないよ。いーーっだっ!」
くらい日本国も言ったらどうだ?すべて話はそれからじゃないか。

というのも南京という場所は、ながぁーいながぁーい5000年の(←これもどうかと思うが)中国の歴史において、さまざまな事件が起きた場所でもある。比較的新しいところの文化大革命も南京だけを避けて行われたわけではなし、国共内戦もあったのだし、それこそさかのぼれば1850年代の太平天国もここでの話なのである。
なのに「掘ったら骨が出ました。だからすべてが日本人のしわざ」だとか、「遺骨に残っていた弾丸の痕や刀剣で刺された痕がある、(棺おけの板か敷板に残された)鉄の釘が出て来た!日本軍による暴行の鉄の証」とか言われても、前に説明したとおり「戦に巻き込まれて死亡した少数の市民は虐殺とはいえない」という私のような解釈もあるわけで
「はいはい、お説ごもっともでございます」
すぐすぐ納得するほど私はナイーブにはできていない。
10人が甚だしく無差別に殺されたら大屠殺でもかまわないと宣っている私だが、だからといって「7200人の被害者水増し」を快く認めようとは思わない。

ちなみにホントの万人坑とは何であるかといえば、生き埋めとも南京ともそもそもまったく関係のないものだ。炭坑において過酷な労働で亡くなった人達を埋めた場所だという、聞き書きによる「中国への旅(著者・本多勝一)」という本を信じるのも自由だが、調査による違う意見も出て来ている。
田辺敏雄氏が当時、「万人坑」で働いていた日本人数百人に調査したところ、「万人坑」を一様に否定。更に中国側の「証言者」が「落盤が日常茶飯事だった」という南満鉱山などは、地下を掘り進むのでなく、地表を爆薬などで削っていく露天掘りという工法であり、そもそも落盤事故など起こりようもない現場だったという確認もとれている。田辺敏雄氏は「万人坑」を反日宣伝のための文革共産党当局によるでっちあげで、骸骨の山は文革の犠牲者であろうとも言っている。とにもかくにも「万人」と主張するのなら、万の遺体と、埋葬後何年経っているのかを正確に割り出す必要があると私は思う。
また、蘆溝橋には「たった三体の遺体」による万人坑というのもあるので、とにもかくにも中華人民共和国側の「万」という数字と結びつけて考えると大変危険であることはお伝えしておきたい。


日本人が送った折り鶴の束

■ラーベ日記の不思議

人骨オン・パレードを過ぎると、やっとひさしのある建物に入れる。ここからラーベ記念館、本館展示場へと続く。

ラーベというのはちょっと前に当時の人口のことでイキナリ引き合いに出したが、南京安全区国際委員会委員長でナチス党員でもあった人。この人が無政府状態になってしまった南京で、安全区というのを作って市民を戦闘による被害から守ったことは事実だろう。しかし、武装解除させた元兵士を、別立ての名簿も作らずに市民の中に混ぜてみたり、ゲリラ兵を内緒でかくまったりしたことにより、「痛くもない腹さぐられて誤認、引っ立てられて処刑されちゃった市民」を増やしたこともまた、事実だと私には思える。
このおじさんに対する私評価はおおむねこんなところだが、肝心なラーベ日記の方はといえば……電気と水道が街に戻った日にも「安全区はまっくらだった」と日記に書くなど、多少の記憶違いもある。
この人はドイツ人であるが、ドイツに関して誤解している人もいるようなので、ちょっと説明をしておくと……
日独伊三国同盟により、当時からドイツを「大日本帝国のお友達」だと思っている人は、完璧な勘違いである。ドイツと大日本帝国ががっしりと手を組んだのは1940年で、37年11月の日独伊防共協定は対ソ連だけの話なのだ。
肝心の中華民国とドイツの関係はというと、国民党軍に軍事指導をしていたり、武器を買ってもらったりしていたのである。このラーベさんが働いていたシーメンスという会社が国民党の首都・南京にあったのはこのため。
そこで便衣兵(ゲリラ)をかくまったことは、これが南京大屠殺が事変でなく国際法で裁かれたことからさかのぼって考えるに、「中立の義務違反=中国に肩入れ」と今は取られても仕方がない。
また、東京裁判の折に提出されたラーベの1938年1月14日付の上海総事宛の文書には、「数千人ノ無辜ノ市民ヲ残虐ナル方法ニ依ッテ殺害シ」とあるのにもかかわらず、なぜか日本語版の日記では5〜6万になっていたり、中国語版ではその記述自体がスッポリ抜け落ちていたりもしていとおかしい。
 

■お馴染み、歴史を喧嘩として解釈してみる

インパクトはあるけど、つくりがなぁ〜
そんなわけで、ラーベさんのところは「ま、こんなもんですか」という具合に見てまわり、いよいよ本館である。
じゃーん。
最初にお出迎えしてくれるのは、左胸に弾を受けて亡くなった子供を抱きかかえる母親の人形。母親の足下には300000という黒い文字が……もう、君たちの主張する数字はわかったっつーの!
悲惨さをアピールするための演出だとは理解できるものの、こうしていきなり
「子供を失った母親!」=可哀想=日本軍はひどーーい!という情・理・法という順番さながらの「情け」の部分をぐいぐい強調した上で、30万という数字で更に畳みかけるあたり、さすがに中国人のツボを心得ていると感心しきりである。
しかし、感心はするものの人形のつくりがあまりにズサンで、遊園地や学園祭のお化け屋敷……というか、肝試しのノリ。根っからのお笑い体質である私のような見物人が、心ウキウキ・ワクワクしてしまう危険性までは計算できなかったのだと思われる。

「日本軍が行った大虐殺事件は、決して南京から初めて開始されたものではありません。日本軍国主義が全面的な中国侵略戦争を発動した最初から、中国の首都・南京への進攻を画策し、上海占領を南京進攻への第1歩とし、かつ前後して蘇州、無錫、常州、江陽、鎮江、広徳、蕪湖等の地に侵攻しました。日本軍の到る所、虐殺、放火、略奪、強姦をほしいままにし、我が江南一帯の同胞は悲惨な境地に陥りました」
これが中華人民共和国のやたらに漢字の多いシュチョーである。

たとえばの話であるが……。
Jさんと隣の家の大家Cさんは、気が合わないことで有名であったとしよう。ある夜、突然Jの家の前でパンパーンと銃声のような音がした。
Jさんは当然Cさんの仕業だと思って文句を言いに行くが、Cさんは「そんなもの知らない、私ではない」という。
あーそうかいと帰って来るも、JさんはなんだかムカムカしてCさんにいやがらせをする。そのいやがらせに気づいたCさんも新たないやがらせをする。翌日には野次馬のKさんまでもが「やれーやれー!」とCさんを煽りはじめ、こんなことが二日ほど続きくが
「あんたたちっ!なに大人げないことしてんのよ!」
JさんCさん双方のおかみさんから言い諭され
「はいわかりました、もうしません」
という仲直りの約束がなされた。しかし、それからも夜になるとパンパーンという銃声のような、爆竹の音はした。これがやじうまKさんの仕業なのか誰のしわざなのか……誰も目撃者がいないためにわからない(※1蘆溝橋事件)

その後、腹の虫がおさまらないJさんは、まったく大人げないことにCさんちの庭に侵入して汚物を放置してみたり、庭の柿の木から柿を採ってむしゃむしゃ食べたりしていた。しかしある日、Jさんの次男をCさんの次男が殴る(※2大山勇夫中尉惨殺)、Cさんの長男がJさんの娘達をいじめたりした(※3通州事件)ものだから、JさんはとうとうたまりかねてCさんの家に直接なぐり込みに行き、KさんがCさんを煽ったがために徹底抗戦という状況になってしまった。そしてJはCの家に乗り込んでCをボコボコにし、JさんはCさんのおかみさんや子供達を殴たりしつつ、そこにあったパンをかじった。Cさんの子供は何を思ったか、「Jに後から利用されたらかなわん」と家にあるものすべてに火をつけたり、残っていたパンを食べたりした。
Cさんのところには、Jさんが足を踏んでしまったことのあるAさん(アメリカ)や、その友達がのB(イギリス)さんが応援にかけつけ、最後にJさんはボコボコにヤラれてしまうのだが、Cさんが弱ったところで今度はKさんがCさんをめちゃくちゃに痛めつけ、Cさん(中華民国)の家をすっかり引き継いでだのである。Cさんは命からがら、隣町の隣町の隣町のまた隣の遠い遠い町に引っ越しましたとさ。
上記のような状態において、J(大日本帝国)に対し「最初の銃声の音事件の時から、JはK(中華人民共和国・共産党軍)の家を最初から侵略して乗っ取るつもりでした。そして殴る蹴る、放火、略奪をしました」とKに宣われても、なんだか納得のいかない気分に私はなるのだが……みなさんはどうだろうか。

なお「三光作戦」を、大日本帝国の作戦だと思っている、または学校でそのように習ってしまった人は、ここでちょっとアタマを整理してみるといい。
●殺光(殺しつくせ)、焼光(住居や建物を焼きつくせ)、槍光(奪いつくせ)なる中国語をまとめた「三光」という名前なぜについているのか?
●大日本帝国が南京を占領して、以後統治しようとしていたのなら、徴発というなの「ぶんどり」は当然あったにせよ……焼き尽くす必要がどこにあったのか? 
●焼きつくすことで誰が得をするのか?
という三つの視点に加え
●三光作戦とは、国共内戦中の共産党の作戦名にとてもよく似ているどころか、うり二つである
ということである。
当時南京にいたニューヨーク・タイムズの記者、ティルマン・ダーディンが記事を書いていて、その中には「日本軍が(12月5日に)句容を占領したのを合図に、国民党兵士達による南京郊外の焼き払いが始まった。日本軍に利用されそうなものは樹木、竹やぶに至るまで一掃された」とある。つまり、占領後の日本軍に一切の「かくれが」や食料を与えまいとして焼光し、槍光したのは国民党軍だったのだ。(ダーディンは白人なので中国人と日本人の区別がつかなかったという主張もあるが、句容が南京の手前であり、この時に南京郊外に大日本帝国軍はたどり着いていないので……この時期ならば否定できるだろう)
それを今になって日本国のせいにするのは、なんだかなぁなである。

また、蘆溝橋事件のあった当時の日本軍は歩兵2個連隊、4つの独立部隊をいれて総勢わずか7000人たらずの小規模の兵しかなかったのだ。これに対して周辺の中国軍は宋哲元の29軍、第37師(師長馮治安)、第30師(師長張自忠)その他合わせて20万人もうようよしていたのである。こんなちょびっとの軍隊でもって、大日本帝国が中国中央部の侵略を考えていたとするのであれば、大日本帝国はよっぽどのアホだったとしか私には思えない。
1937年10月21日には大日本帝国が駐日ドイツ大使を通じて和平交渉を依頼。
1937年11月2日に
1.内蒙古に自治政府を樹立する
2.満州国国境に非武装地帯を設定する
3.上海の非武装地帯を拡大する
4.抗日政策をやめる
5.共同して防共に当たる
6.関税率の引き下げ
7.中国における外国権益を尊重する
上記7つの条件で停戦を申し入れては蒋介石に拒絶される。
1937年12月2日には中国駐在ドイツ大使トラウトマンが南京で蒋介石と会談。唐生智、白崇禧らの軍首脳を集め、トラウトマンに対して「停戦」の労をとるよう改めて依頼したのだが、この前日である12月1日に、大日本帝国は総攻撃の命令を下してしまっている。
ドイツに仲介役を頼んで和解を申し入れておきながら、その返事も待たずに開戦なのだからわけがわからない。しかし、このたった一日のすれ違いがなかったら、今の歴史は劇的に違ったことだろう。
「共産党に負けたのも、台湾へ逃げたのも、みぃーーーんなキミとこの天皇のせい」
なぞと台湾で私は言われないで済んでいただろうか?


■我が家の日中戦争

今回これを書くにあたって、あっちこっちの中華民国人にやれ「君たちがガッコ習った歴史ってのを、話して訊かせろ」だの「南京大虐殺に関してどう思ってるか」だのと追い回したのだが、そのたんびにプチ日中戦争が勃発?しそうになるのには辟易した。
あれこれ聞いているうちに、なぜかみんなきま熱くなってしまい、必ず「君たち日本人は当時……」とか「「君たち日本軍は昔……」なぞと言い始めるのである。
そのたびに
「大日本帝国軍……でしょ」だの、「大日本帝国国民は……でしょ」だのと軌道修正するのではあるが、どうしてこうやって攻め入りたくなってしまうのか、もともとが非国民と巷で噂の私としてはとてもとても不思議である。
私はアメリカ人の友達と歴史の話をしていたとしても
君たちアメリカ人はねぇ、広島と長崎に原爆落として私たち日本人に酷いことしたんだよ」
なんて言わない。「アメリカが原子力爆弾を日本の上で落とした」ということは事実でも、彼らはアメリカの代表ではなく……私も被爆者や日本の代表ではないのだから。「わたし」と「あなた」と「お国」と「歴史」がぐっちゃぐちゃだけは、どうしても私には受け入れ難い。
彼らのいう「日本軍」は大日本帝国の大日本帝国軍であって、今は「日本軍」そのものが存在しない。あるのは自衛隊だし、私は初手から自衛官でも軍人でもない。確かに私は日本国のパスポート持っていて、それこそ世界のあっちこっちで「日本国」の庇護のもとに助けられている。(これは「ほとんど無いのも同じ」であるパスポートを持つ、中華民国人と一度でも旅してみればすぐわかる)
でも、「国」というバリアーで一般市民が守られることはあっても、逆はダメだと思う。外相じゃないんだから勝手に代弁したり、代表になったりしてはイケナイと私は考える。
たとえば台湾で、誰かが私に「首相の靖国神社参拝」に関して、どう思っているか訊いたとしよう。
「ん?なんでそれが政教分離っていう、日本の憲法違反になるのかよくわかんないんだよね。政教分離ってどっかの宗教だけに重きを置かないってそういう意味でしょ?それに、日本には信仰の自由が保証されてるしね」
とかいう、いつものようにトンチンカンな答えをしたとしても、それは冒険小僧の冒険小僧的な意見でしかない。なのに
「やっぱり、日本人はそう考えるんだ!」
などと勝手に解釈をしてしまう人の多いこと多いこと!
これで私は毎度毎度、何か意見を言うたびに面食らい
「あーーーっ、違う違う。それは私が日本人であるとかないとか、そういうのとは別で、私個人の非常に個人的な単なる意見なんだよー!お願いわかってーー」
などと、慌ててゴリゴリ付け足すハメになるのである。
私が日本人なのは間違いのない事実だけれど、私は日本を背負ってなどいないということには気づいてもらえないのだ。まったくもって迷惑きわまりないので、私は政治の話を極力自分から外国人にはしないようにして暮らしていた。しかし、こちらが話さなくても尋ねられてしまうこともあるわけで……最近はなんでもかんでも
「私って政治音痴なのよねー。落語とか演芸、アヤシイ関係の話ならいくらでもできるよ」
で逃げきっている。
日本に居てこれを読むと
「んなわけないじゃーん。なんでオマエの意見が、日本の意見になっちゃうんだよ。考えすぎだろ」
と思うかもしれない。でも、日本国内では「単なるいち個人」でも、1歩日本を出ると「日本政府の代表」として扱われてしまうこともあると……旅に出る時にはちょっとだけでもいいので思い出してみて欲しい。



 

■南京大屠殺の背後には……

揚子江にかかる南京長江大橋の展望台に、お登ってみました。さて、この大屠殺に関して考えるに、蘇州じゃなくて、無錫じゃなくて……どうして南京に多大なる被害が出たのだろうか? ということはかねてから私の疑問であった。
まずは
●南京市は揚子江の湾曲部にあるため、北と西の二方を水路によってかこまれている
という地形的なことがあるだろう。
「水路」なんて書くと、まるでお米を作っている、田んぼの「水路」みたいなものを思い浮かべちゃうかもしれない。揚子江というのは右の写真を見てもらえばわかるだろうが……川というより、海といった方がしっくり来るような川幅なのだ。写真右側に見えているのが南京長江大橋で、対岸(浦口)はぼぉっと霞んで見える程度。
なお、私が写真を撮った場所は長江大橋の橋のたもとではなく、展望台のある橋の中程のところ。つまりこの写真と同じだけの川幅が、背後に下関まであると思ってもらえば
「そりゃーー泳いでは渡れないわさ」
通常の意識と判断力があれば、理解してもらえることだろう。
大日本帝国軍は東に位置する上海から西へと、中央を横切る、北側の鎮江からまわりこむ、南側から北上するという、大きくわけて三つのコースから南京を目指したのだ。つまり、国民党軍から見れば揚子江を背に追いつめられてしまったわけで、文字通りの背水の陣。
「うわーーっもうこりゃダメだ。皆のモノ撤収じゃ!てっしゅうーー!」
という段に船が岸に無かった。つまり、国民党は南京防衛軍の兵士を対岸へと逃がす手だてを、なぁーんにも整えてはいなかった。
極限状態にまで追いつめられていたら、つまり「通常の意識と判断力が無くなっている状態」であったらどうするであろうか?
「もしかしたら、泳ぎきれるかも?」という希望的観測によって、川に飛び込む兵士が居てもおかしくはない。
実際、こうして逃亡を試みたものの、途中で力尽きて溺死してしまった兵士もかなりいた。
しかし、ここでふと立ち止まって考えてみるに……
この溺死した兵士達は「大日本帝国軍による屠殺」なのだろうか?
泳いで逃亡を試みた兵士を岸にいる大日本帝国軍が討ったとしたら、「大日本帝国軍による屠殺」なのだろうか?
私が考えるに、戦場で敵軍がくるっと後ろを向いて走って逃げた場合、その背中を討つのは交戦者同士である以上当たり前の行動ではないかと思う。第一後ろを向いていようが、泳いでいようが逃亡している正規の兵士が、投降をしていないことは小学生でも理解できることだ。

●責任者、どこいっちゃったんだよーー!
しかし、それにしてもなぜに対岸への南京防衛軍逃亡手段が、まったく整えられていなかったのであろうか?
それもそのはず……12月7日の時点で国民党軍のトップ蒋介石は夫人を伴って、二機の私用機で漢口(現在の武漢)へ。唐生智将軍以外の軍指導者、馬超俊市長も南京を脱出してしまったのだ。つまり、南京の街はこの時点で、「見捨てられた町=捨て駒」になり果ててしまったことになる。
そして南京で戦闘を続ける兵士にとって、頼みの綱である将軍・唐生智は、撤退作戦に関するなんの手はずを整えることもなく、1937年12月9日、南京郊外で一旦攻撃を休止した大日本帝国軍が蒔いた「降服勧告文のビラ」を無視して
「徹底抗戦だぁー!」
と叫びつつ、後には
「みんな勝手に逃げて、後で集合だぞー!」
なるエラク無責任な命令を出し、12月12日の夕方には敗残兵を見捨ててこっそり自分だけ揚子江北岸にトンズラしてしまったのである。
嗚呼、もう、なんてこっちゃー。
「南京では大日本帝国軍を極限まで弱らせるために持ちこたえてくれ」なる蒋介石の作戦に、どうのこうのと言う気はない。最高責任者である蒋介石が首根っこを押さえられた場合
「はい、それまーでーよ♪ちゃん、ちゃん」
になってしまうことは明らかなので、蒋介石の脱出を責めるつもりもない。
が……しかし、それにしても、唐生智将軍の行動はあまりにあまり過ぎる。これでは国民東軍に多大なる被害が出ても当然のことだ。(また、南京市民を放り出してラーベに押しつけ、さっさと逃げてしまう市長も「なんだそりゃ?」ではあるが、とりあえずここでの話題とは関係ないので黙っておく)
下関周辺でたくさんの兵士が亡くなったことは、疑いのない事実ではある。だが、その理由をごそごそと掘り返して考えてみるに、無責任な国民党側の将軍が浮かび上がって来ることもまた事実なのである。また、朝日新聞によれば「その無責任と劣悪な統制能力が糾弾され、唐生智は12月18日軍法会議にかけられ、19日銃殺刑に処せられた」ということなのだが、「唐生智」という名前さえも中華民国の一般人は知らないのが現実なのだ。
将軍の失敗によって引き起こされた多数の犠牲者まで、大日本帝国軍による「屠殺」としておっかぶせ
「よーしこれで片づいた」
中華民国がてのひらについた埃をパンパン、はらっているように思えてならないのだ。

●当時、南京が中華民国の首都だったから
これはもう、ほんっとによく言われるし、どこにでも書いてあることではあるのだが……実はコレ、半分正しくて半分間違っているのである。
私は日華事変をいわゆる蘆溝橋から切り取るのではなく、満州〜蘆溝橋〜上海〜南京という流れで見てみないことには
「なんでそもそも北京の端っこに大日本帝国軍が駐留してたのよ」
「なんで蒋介石、同じ国民党の張さんに監禁されたのよ」
「なんで一回仲直りしたのに、戦争始めたのよ」
あたりの疑問が解けないようには思う。

確かに上海を制して「いざ!南京を目指せ!」と大日本帝国軍が言っていた時点では、中華民国の首都は南京であった。
しかし、大日本帝国軍が南京入城をしたとされる12月13日の時点で、南京は首都でもなんでもないタダの街だったのである。
「南京さえ陥ちれば、戦も終わる!」と信じて破竹の勢いで前進していった兵隊がいかに多かったかというのも、あちこちの資料から見てとれる。
それだけに「一番のり」を巡って各師団が躍起になって進んだのでもあろう。また、この猛進撃に、後方からの食糧支援が追いつかなかったことも、「摘発」という名の現地調達=略奪が起こった主な原因だとも考えられる。
「戦争終結」を胸にひっちゃきになっていた兵隊さん達には、言ってしまうだけ可哀想にも思えるのだが、国民政府は10月30日に「重慶へ遷都しまーす」という決定をしており、11月20日からは政府機関を続々と漢口(現在の武漢)や重慶などへ移動させていた
そして遷都決定の下された10月30日に大日本帝国軍がどのあたりにいたかといえば、上海をちょびっと出たというところで、上海−南京間の距離でいえば1/20にもならない程度のところ。
兵士からしたら「わわっ、そりゃないよー」だろうが、国民党からすれば「首都占領されちゃ困るもんねー」な都合なのだ。

ちなみに中華民国というのは
「君たちは、ヤドカリかよ!」
突っ込みたくなるくらい、首都をあっちこっちに遷都しまくっている。
孫文が1911年北京に首都を置いた後は、1926年に国民党左派が武漢への遷都を決議し、蒋介石は南昌への遷都を主張する。
そして、武漢からも南昌からも遠い、南京が首都になったのは1927年。その後は今書いたように、大日本帝国軍が攻め入るのにともなって、漢口(現在の武漢)→重慶とウロウロしたあげく、1946年5月には首都をまた南京に定めなおしている。このあと1949年12月7日に台北へ「遷都」したかどうかというのは、それぞれの歴史によって違ってくるのであるが、中華民国側が
「いや、いまだに南京が首都だ」
主張していることは前にちょっとだけ触れ、「大目に見てやってください」ともお願いしておいたわけだ。

とある中華民国人のデスクトップ画像・中山陵

蒋介石は上海で負けた時点ですでに、南京がヤラレル!と思っていたからこその10月末の遷都決定なわけで、南京はその時点で地理的な背景からも「捨て駒」と判断されたのだと私は見る。
「首都である南京で大虐殺があったなら、どうして国民党側から被害の報告がなかったのか!」
「南京という二方を水路で囲まれた場所で防衛戦をするなんて、軍人としてちっとも先が見えてない!」
という意見をあちこちで目にするのだが、
「だからさーー、最初から南京は捨て牌だったんだってば。捨てちゃったゴミをいくらボコボコにしようとも、蒋介石がグタグタ言える筋合いじゃない。それに、南京の地形が不利だと最初からわかっていたからこその、重慶への遷都だったんじゃねーの?」
対大日本帝国軍における軍人・蒋介石は、タダのつるつる頭のオッサンだと侮れない私はここで言っておく。

また、どうしてこういった「戦争に不利」な地形である南京に、中華民国がここまで執着し続けたのかといえば、キーワードは孫文こと孫中山だろう。
「へぇ、そうなの軍事的に不利なの?」
医師であった孫文がこのことに気付いていたのかは疑問だが
「中華民国の首都を南京と孫文先生が定めた以上、これを守り継がなくては!」
という想いが、つるつる頭の愛国者であるオッサンにはあり、しかも南京には中山陵というクソでっかい「古墳」ものどきの孫文のお墓がある。
私にとっては
「はぁ〜そうですか、お墓ですか。なんでもいいけど階段ばっかで、登ると足が筋肉痛です」
程度のシロモノでも、同行の中華民国人などは
「ここで写真撮って、デスクトップに飾ろう」
いい出すくらいに大切なものなのである。
大日本帝国軍が南京を攻撃するにあたり
「中山陵だけは、なーーーにがあっても絶対、絶対に攻撃したり弾当てたりしちゃだめだからなーー!」
という命令を出し、実際なぁーんの被害も出さなかったのはまことに的確な判断だったと思う。


■大ウソ写真集大集合

さーてさて、せっかく本館にウキウキ・ワクワク足を踏み入れたところだったのに、ふと気づけばいつの間にか重慶まで左遷されている。これはこれで書いていて面白いのだが、とりあえず記念館へ話を戻そう。
この記念館にある資料はもーー、どれもこれも日本のどっかの雑誌や写真集で見たようなものばかりで
「なんだよ、詐欺じゃないかよ。入場料10元返せよ」
的気分にめいっぱい浸れることは保証できる。
しかも、あっちこっちに「大日本帝国軍の蛮行」として展示されている写真は
「時代が違いまーす!」
「合成されてまーす!」
「ヤラセでーす!」
「アメリカの作った抗日宣伝映画の1コマでーす!」
「とりあえず南京大虐殺とは関係ありませーん!」
のどれかに当てはまってしまい
「オラオラオラ!もっとマシな証明写真出さんかい!」
思わず凄んでしまいそうになる品揃えなのである。
もちろん南京大虐殺と関係ないからといって、大日本帝国軍の蛮行であれば、いつの時代のどこのものでも展示しちゃっていいのかというと……「侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館(侵略日本軍の南京大虐殺によって難に遭った同胞のための記念館)」という名前なんだから、全然よろしくないのである。
これでは「原爆記念館」に東京大空襲被害者の写真を、展示しているようなものである。ましてや(再度引っ張って来て、しつこいのはわかってますが……)
 
1937.12.13
-1938.1

こんな日付を入口にかかげている以上、市民と兵隊が揃って夏服なんか着ている写真は即座に問題外として構わないはずだ。(これがまた多いんだよなぁ)南京は常夏なんかではなく、冬はきちんと寒いのです。

ニセモノ写真群の中には、ニセモノが多々あるということを知っているはずの私でも
「ぎゃぁーーっ!」
声をあげて目をそむけたくなる、生首床にいっぱいゴロンゴロン写真というのがある。

実はこれ清朝末ごろの満州にはびこった、「馬に乗った集団盗賊(馬賊・匪賊)」が処刑されたものなのだ。清朝末という比較的近代に、首を切って見せしめのためにさらし首にしたというのだから、まるで「江戸時代にタイムスリップ」気分ではある。
実際に写真を見てもらうといいことは確かなのだが、あまりにも気色悪すぎて載せる勇気がない。……というより、二度とこのページを自分で開きたくなくなりそうだが、まだ最後まで書けていないのにそれはとてもマズイ。
なので、「馬賊(匪賊)の写真」サーチするなりなんなり、各自の行動?にお任せする。

しかし、ここまで明らかに清朝時代の写真だとわかるような写真を、さも大日本帝国軍のしわざのように見せかける、侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館。歴史的知識のない単なるアホの仕業なのか、反日政治的プロパガンダのために機能しているのか、本当のところがとても知りたいと願うのである。

他にも「大日本帝国軍が仏教僧を虐殺しているところ」の写真というのがあり、単純な中華民国人の我が同行者などは
「大日本帝国軍はやっぱりヒドイ、罪もないお坊さんを殺すなんて」
とか、すぐ洗脳されてくれたりするのである。仕方がないので
「あのぉ、お尋ねしますが……この写真だと軍服で軍帽かぶっている人以外、みんな髪の毛フサフサなんですけど、中国のお坊さんって、みんな髪も剃らずに仏門に入るんですかぁ?
口を挟み込んでみると、はっと我にかえり
「そういえばオカシイよね?中国のお坊さんにかぎって……そんなはずはない」
とか気づくのである。
あのさぁ、国民党は西安事件をはじめ、いくども共産党にはコロッと騙されてんだからさぁ、もうちょっと共産党によるこの展示にも「疑いの目」を持ったらどうなのよなどと……どうしても憤ってしまうのである。


■まだあったのか、百人斬り

まぁた大々的な……

いやいや、ウソ写真の数々には笑わせてもらったのだが、展示物のなかでもかなり大きなスペースを「百人斬り」に割いていたののにはびっくりした。私からすれば、「まだやってたのかー!」という、感動ひとしおである。
しかし、一人で感動していても読者には伝わらない。
百人斬りのことをひとたび口に出すだけで
「オマエ、まだそんなこと真に受けてんのか!気はたしかか?」
両肩をがしっと捕まれて、ユサユサ身体を揺さぶられるであろうことは承知の上なのだが、とりあえず……おざなりにならない程度に紹介しておこう。

発端は東京日日新聞(今の毎日新聞)の記者が、野田毅少尉と向井敏明少尉を新聞に取り上げたことだ。この二人の少尉に関して記事が出たのは4回。両少尉は東京裁判で「無罪放免」というか起訴取り消しになりながら、南京の軍事法廷に呼ばれてこの記事を「証拠」に死刑にされたのだ。。
とりあえず、その「死刑の原因」となった記事を並べてみよう。



 
●1回目 1937年11月30日付朝刊
(見出し)百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人 
(本文)[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発] 
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。 
  無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた 
  その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。 
  向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ 
  野田少尉  僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ

●2回目 1937年12月4日付朝刊 
(見出し)急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過 
(本文)[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 
既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。 
  常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。 
  中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。 
野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

●3回目 1937年12月6日付朝刊
(見出し) 89−78百人斬り¢蜷レ戦 勇壮!向井、野田両少尉 
(本文)[句容にて五日浅海、光本両特派員発] 
南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

●4回目 1937年12月13日付朝刊
(見出し) 百人斬り超記録′井 106−105 野田 
(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 
南京入りまで百人斬り競争≠ニいふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した 
  野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉はアハハハ′給ヌいつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち 
  知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ 
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。 

(写真説明)百人斬り競争≠フ両将校(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。


 


さーて、この記事をどう見ようか。
1)きゃーー、刀で敵を斬るなんて時代錯誤
2)きゃーー、勇敢でカッコイイわぁ。
3)こんなことあり得ん
4)だから?

当時大日本帝國でこの新聞記事を読んでいた人の中には2)も多かったらしい。……というよりこの記事、「戦が終わって日本へ帰ったら、お嫁さん候補いっぱいでモテモテ〜」という、戦場側にいる二人はそんな軽い気持ちだったらしい。もちろん記者側、大日本帝国側には「戦意高揚」という都合があった。
私はというと3)と4)だったのだが、4)から説明してみよう。
この新聞記事がすべて事実であるとするのなら、ここには「敵を斬った」ということしか書かれていない。確かに「競争」と聞くと、なんとなく不謹慎な気はするものの……それは今が戦時中ではなく、ここが戦場ではないからだと思う。戦時下であれば、「戦場で敵を倒す」のは、正式な交戦者である兵隊にとってはお仕事と同じ。そうお仕事と考えてみると、わりとすんなり受け入れられるかもしれない。
つまり、今の社会でいう営業成績がイコール、兵隊さんにとっては戦果だったのだ。戦果とはどれだけ敵にダメージを与えられたかということであり、ぶっちゃけた言い方をすれば「何人倒したか」ってなもんである。その手段が銃だから当然で、刀だから虐殺ということにはならない。接待であれ粘って毎日日参したのであれ、仕事をとってきた営業マンが「優秀」なのと同じこと。
そしてなぜ3)だと思うかといえば

●両少尉の所属大隊は昭和12年12月12日 麒麟門東方に於て行動を中止し 南京に入ることなく 湯水東方砲兵学校に集結す
●大隊将兵は昭和12年12月13日から翌年1月8日まで外出を禁止せられ特に南京方面に外出せしめたることなし
●向井少尉は昭和12年12月2日丹陽郊外に於て左膝頭部盲貫を受け離隊 救護班に収容せられ 昭和12年12月15日湯水に於て部隊に帰隊し治療す

両少尉の上司であった富山大隊長が、向井少尉が戦犯容疑者として逮捕された後に、その家族の懇願に応じて書いた「証明書」にも、南京軍事法廷での弁護人が法廷に提出したと推定される「上申書」にも、上のようなことが明記された。
……ということについて、私は読んだことがあったのだ。

これでとりあえず「日本刀で100人もの人を刃こぼれせずに、切れるか切れないか」なんていう検証はどーでもよくて、治療していた向井少尉に関してのアリバイはオッケーだ。
さて、野田少尉をどうするべと思っていた矢先……先ほど並べた東京日日新聞の4回目の記事を書いた、鈴木二郎記者の証言を発見した。
 
 


そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは…。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです。 
 

この証言によれば、両少尉は少なくとも常州と紫金山麓でも浅海記者と会っていることになる。紫金山麓で鈴木二郎記者が会ったのは12日ということなので、3つの項目のうち最初と2番目の辻褄が合わなくなってしまう。
うーむコレは困った……というか、「4)はともかく、アリバイが崩れたー」だったのだ。
 
 


●佐藤振寿(しんじゆ)カメラマン(1937年11月29日第一報の時に写真を撮り、第4報で使われた)
▼「百人斬り競争」の真実について、三年ほど前、実際の報道にかかわった佐藤振寿(しんじゆ)氏(当時八十三歳)に話を聞いたことがある。佐藤さんは東京日日新聞(現、毎日新聞)のカメラマンとして、昭和十二年十二月の南京攻略に従軍した 
▼「百人斬り競争の記事は毎日の社会部の浅海一男君が書いたんです。私がその野田毅少尉と向井敏明少尉の写真を撮りました。二人は南京法廷で銃殺刑になりましたが、私にいわせればあの二人が亡くなったのは日本国民、読者のせいですよ。でたらめのホラ話でも何でも読者が求めていたんです」 
▼これから南京へ入るまでどちらが先に百人斬るか競争するんだという話がでた。「ところが野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲の小隊長です。命令をする立場からいっても敵兵をそんなに斬れるわけがない。ようするにヨタ話なんです」 
▼浅海記者の消息はわからないが、戦後になって同記者に会ったとき、市ケ谷の軍事法廷の検察から呼び出しを受けたと話していたそうだ。「そのときに浅海君が“あれは兵隊さんたちのホラ話ですよ”といえばよかったのです」。佐藤さんは自らも悔やみつつ、そう真相を語ったのだった (1997年5月9日産経新聞)
 

なる記事はあるものの、私はこの記事の中にある「あの二人が亡くなったのは日本国民、読者のせいですよ」という言葉に、今が戦時中でないことは承知の上でありながらも……同じく文章を書いている者として、どうしても違和感を覚えてしまうのである。
読者が悪いのだろうか?
時代におもねり、読者が求めているもの提供するのがジャーナリストなのだろうか? と。
逡巡していたところに出て来たのが、
「野田少尉が故郷の小学校で、百人斬りは白兵戦の中で中国兵を斬ったものではなく、据え物百人斬り競争であった。据えもの斬りや捕虜虐殺が日常茶飯事」
だと主張し始める本多勝一である。
なんだなんだ?
据えもの斬りってーのは、すでに死んでいる「死体」を斬ることではないのか? 
辞書を引いてみたりもしたのだが、生きている捕虜の虐殺となればニュアンスは違ってくる。
これでは頼みの4)まで、覆されてしまうではないか!
慌てて私は、本多勝一が出して来たという証言を掘り出してみた。
 


それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。 
陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。 
私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校へ進む土地柄であった。私自身その三年のちに陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響――日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死した――を強く受けて、熱烈な海軍ファンだったからかもしれない。 
さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。 
「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ…… 
実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない…… 
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る…… 
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ…… 
二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」 
これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。 
腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう?反抗しないのだろう?兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。 
そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう兵隊シナ語≠フ一種でもあったのだ。 
その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情するヒューマニズム≠ヘなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに…… 
だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという勇士≠フ体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して聖戦≠ェ可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。(後略) 志々目彰「日中戦争の追憶――“百人斬り競争”」(月刊誌『中国』1971年12月号) 
 

注目すべきはこの故郷での講演会?が、昭和14年(1939年)という戦争中に催されていることだろう。つまり、相変わらず「戦果をあげた兵隊さんはエライ!」だったのであり、そもそもなんで野田少尉が小学校へ連れて来られたのかといえば、戦意高揚万々歳という勢いに「加担してよ。ねぇ、お願い」だったに違いない。
こんな状況で
「あーーあれねー。全部ウソ。捏造」
なんて言おうものなら、A先生のメンツは壊滅的丸つぶれであったであろうことは想像できる。
その上で野田少尉の口から出た言葉の部分を、よーーーくよく読んでみたのだが、どこにも「捕虜」という言葉はない。
この野田少尉の言葉自体がテープから起こされたわけでもなく、書面でもなく……証言者の記憶によるものなので
「捕虜とは言ってない」と断言できないかわりに「捕虜だと言った」とも言い切れないというのが現実。
しかしそんなこと言っていては前に進めないので、とりあえず証言者の証言が正確だったとして進めよう。
すると、塹壕から「降参しまーす」と自ら白旗を揚げて出て来た敵兵であるのならまだしも、彼らは隠れていたところを
「出てこい出てこい」
と言われて仲間だと間違えて出て来たわけで、投降している=捕虜だとは認められないではないか。
逆に、日本語でやいのやいの言ったのにもかかわらず、彼らが出て来たのだとすれば……「観念して投降?」という見方をすることも間違いではないと言えたであろう。
また、この人の証言には「腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵」というのがあるが、この人が勝手に風景を頭の中で思い描いてみただけの話で、あくまでも想像の世界。「妄想」と言われても仕方がない。またその妄想の中でさえも、「なぜ中国兵は逃げないのだろう?反抗しないのだろう?兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか 」と、不思議がっている。私もとても不思議だ。

というわけで、これが捕虜の虐殺ではないというのが私の結論。それを裏付けるかのように出て来たのが、東京裁判の際、百人斬りが虐殺の一事例として注目され、浅海、鈴木両記者が検察側の喚問を受けた時の鈴木二郎記者の証言。
 


どの特派員もこの二将校が実際に斬り殺した現場をみたわけではなく、  ただ二人がこの“競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、 “二人とも逃げるのは斬らない”  といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別 にとられた)わけではなかったが、期せずして、 『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った。日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』  と強調した。 

二人の記者は南京の軍事法廷宛にも、ほぼ同様の証言を家族の要請で作成しているが、「反証は一切認めない」ということで死刑が決まってしまったのだ。
「立ち向かってくる敵だけを斬った」「一般民衆には手を出していない」「虐殺ではない」となれば、≠投降した捕虜を並ばせてメッタ
……などとはほど遠い話にしかならない。
次は大作国アメリカの学者さんの意見。
 


【ワシントン11日=古森義久】1937年(昭和12年)の日本軍の南京攻略の際、日本軍将校2人が日本刀で中国側100人をどちらが先に殺すかの競争をしたという「百人斬(き)り」事件について米国人の歴史学者がこのほど詳細な学術論文を発表し、この事件はねつ造であり、戦後にその2人を処刑した軍事裁判も不当だったという結論を打ち出した。 
 同論文は「南京百人斬り競争論議=一九七一年から七五年のねつ造されたまぼろしの戦争の罪意識」と題され、カナダ・トロントのヨーク大学の歴史学教授ボブ・ワカバヤシ氏(五〇)によって書かれた。三十三ページにわたる同論文は米国の日本研究学術雑誌でも最有力の「日本研究ジャーナル」の最新号に掲載された。 

 ワカバヤシ教授はこの論文でまず「百人斬り」について日本国内で歴史家の洞富雄、新聞記者の本多勝一、ノンフィクション作家の鈴木明、評論家の山本七平の各氏らが七一年から七五年にかけて展開した論争の内容を詳しく紹介し、点検している。 

 「百人斬り」というのは三七年十一月から十二月にかけ、南京を攻略する日本軍の行動の一端として毎日新聞(当時の名称は東京日日新聞)の浅海一男記者らが現地から三回にわたって送った記事で「日本軍の少尉二人がどちらが先に日本刀で中国軍兵士百人を殺せるかという競争をして、実際にそれぞれ百六人と百五人を殺した」という趣旨の報道をしたことから、戦後の中国側の南京軍事裁判でこの記事をほぼ唯一の根拠として二人を死刑とした、という事件。 

 ワカバヤシ教授はこの事件をめぐり七〇年代の論争や、その対象となった毎日新聞記事、日本国内の英字紙「ジャパン・アドバタイザー」に掲載された同新聞記事の英訳、南京軍事裁判での各証拠書類などを点検し、当時の南京での戦争の状態などをも調べた結果、(1)日本側の当初の報道では二人の将校は南京近くの句容から紫禁城までの何キロもの区間で「百人斬り」競争が実行されたとしている(2)当初の報道では「百人斬り」の対象はあくまで中国側の将兵だったが、後の本多勝一氏らの報道ではいつのまにか、一般住民にまで広げられた(戦争で敵の将兵を殺すことは犯罪ではない)(3)当初の記事の筆者の浅海記者らは二人の将校が実際に中国人を殺すところなど、みたことはないと証言し、東京裁判では二将校を拘留し、尋問しながらも解放した(4)当時の日本軍は日本刀で敵を殺すことは一般的ではなく、また将校の日本刀はそれほど頑強ではなかった−などという点を強調している。 

 ワカバヤシ教授はこうした諸点を踏まえて、「提示された証拠は二将校の有罪を十分には立証していない。私としてはこれら証拠を総合して『百人斬り』事件というのはねつ造だという結論を得た」と述べ、さらに「事件は虚構であり、二人の将校は不当に処刑された」と明言している。 

 「百人斬り」に関して日本や中国以外の第三国の学者がこうした研究を発表したのは初めて。ワカバヤシ教授は米国オハイオ州生まれの日系米人で、カナダの大学で歴史を教え、日本の近代史を専門としている。 (2001.05.12 産経新聞)
 

そして、つい最近出てきたのが、野田少尉の獄中手記である。
 

■野田少尉“百人斬り”虚構裏付け
南京で死刑前の獄中手記発見
戦意高揚記事「記者が創作」

 日中戦争の南京戦で“百人斬り”競争をしたと当時の新聞に報じられ、戦後、記事を理由に中国・南京で処刑された野田毅少尉が獄中で書き残した手記が、十七日までに見つかった。手記には新聞記者との会話が記され、記者が「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」などと戦意高揚記事を持ち掛けた様子が生々しく伝えられている。“百人斬り”の創作説は、過去にも指摘されてきたが、手記の発見は記事が作り話であったことを改めて裏付ける資料となりそうだ。
 野田少尉の手記は今年三月、鹿児島県在住の実妹、野田マサさん(七二)が保管していた遺品の中から見つかった。B4判のわら半紙の表裏に鉛筆の細かい文字で書かれており、執筆時期は昭和二十二年十二月十八日に死刑判決を受けてから、翌年一月二十八日の処刑までの間とみられる。

 手記で野田少尉は「被告等ノ個人的面子(めんつ)ハ一切放擲(ほうてき)シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス」として、自分と向井敏明少尉の二人が昭和十二年秋、中国・無錫で、記事を書いた東京日日新聞の記者(故人)と交わした会話を再現している。

 当時の新聞記事では、野田少尉ら二人が戦場で“百人斬り”競争を始め、その途中経過を記者らに逐次伝えたことになっている。しかし、野田少尉の手記によると、記者が二人に「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ。記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」と逆に持ちかけている。向井少尉が冗談として「ソウデスネ無錫附近ノ戦斗デ向井二〇人野田一〇人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四〇人野田三〇人…(中略)無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ」と数字を挙げて応じると、記者は「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ」「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」と二人に話したと書かれている。

 手記によれば、二少尉と記者は無錫で別れ、その後、野田少尉が記者と次に会ったときには既に“百人斬り”競争の記事が日本で話題になっていたという。

 野田少尉は「被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為ザリキ」と「百人斬り」を否定。「被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ嘘報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任」と自分たちの責任を認めながらも、「記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と記者を批判している。

 野田少尉と向井少尉は戦後、記事を理由に処刑された。

 昭和四十六年に朝日新聞で連載された「中国の旅」でも取り上げられたが、その後、ノンフィクション作家、鈴木明氏が、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作「『南京大虐殺』のまぼろし」で、記事中にある二少尉の行動経路が事実と異なっていることなどが書かれた文書の存在を明らかにし、虚構だったことを指摘している。(2001.06.18産経新聞)

 

というわけで、すべての情報のモトが産経新聞のみであるのはちょっと気になるところではあるが、これだけ「捏造説」がぼこぼこ出て来ている以上、本多経由志々目発の「ニーライライ」=捕虜の虐殺という解釈はちょっと無理がある。
これ以外に
「いいえ、わたくしはこの目で現地で二将校が投降兵を並べて刀で切っているのを見ました」
なる証言やら研究が出てこないかぎり、「敵兵ではなく、投降捕虜だけに限った百人斬りがあった」とするのは、かなり苦しい状況だと私は思う。
……とするのが気に入らなければ、「有罪として処刑するには、証拠不十分だよなぁ」説なら納得してもらえるのでは? 

有罪の可能性は限りなく小さく、冤罪かもしれない……というこの状況下で、展示スペースを大幅に「百人斬り」に充ててしまう、侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館。
資料分析が出来ない単なるアホの仕業なのか、反日政治的プロパガンダのために機能しているのか、本当のところがとても知りたいと、再度思うのである。
さらに、現地南京の軍事法廷で裁き、雨花台で処刑しておいて……野田少尉の名前を「野田」などと新聞の誤植通りに平気で間違ったまま書き、それを堂々と展示しているあたりは誰が見てもズサンだとしか言いようがない。
松井根なる名前の指揮官が居たからって、「」もありだと思ったのだろうか?
終いには「いちま〜い、にまぁ〜い」……皿の数を数えちゃうぞ! (←なんの脅しにもなってない)



 

■日軍士兵日記中記録常州虐殺及暴行

すいませんねぇ、ブレブレで。写真下手なんすよ

「日軍士兵日記中記録常州虐殺及暴行」と中国語で題され、日本人兵士による日記の一ページが展示されていた。訳せば「大日本帝国軍兵士の日記に記された、常州での虐殺および暴行」となるだろうか。(←別に訳さなくてもみんなわかるっつーに)
これなら日本語だから問題なく読めるだろうと思ったら、これがもう、なかなかの達筆というか、いわゆる
「どうしておばぁちゃんから届いた手紙って、こんなに読みにくいの?」
と子供の頃に思ったという……アレ。
写真に撮ろうとすると「写真禁止」とのこと。マジかよー、もうあっちゃこっちゃで撮りまくっちゃったんですけど……仕方がないのでそこらにいた監視係の兄ちゃんを
「この悲惨な現状を、是非とも日本の同胞に知らせたいと思うが、ここに展示してあるもののほとんどが中国語で書いてあって説得力にかける。この日記なら日本人誰でも読めるのでこの写真をどうしても撮りたいのである。フラッシュ炊かないから是非撮らしてくれ。ちなみにこれは写真機ではなく、いわゆるデジタルのものでどっちかっていうと画像記録装置のようなもの」
とかなんとかウソともホントともつかないようなことを言いまくってまるめこみ
「絶対にフラッシュは駄目だからな、さっさと撮れよ」
といってもらい……内心小躍りしつつ撮ったがために、こんなブレブレなのだろうか。(←こういうのを、写真を撮る意味ナシ! といいます)

「小僧、カメラ持って旅に出る必要なし!」ということが確認されたところで、ブレブレ写真のお詫びのしるしとして、達筆文書の解読をしてみた。(解読不明なところは_になっているけれど、意味は通じるだろう)
--------------------------------
爺父が居て色々もてなしてくれる。
負傷者が十数名、_入り茶を飲む。__の外に__の死体が累々としてある。
戦友達が残虐なことをした話をしている。敵国の人間でも余りなことは可哀想だ そんな話が何か聞こえ嫌である。
十一月三十日
午前四時三十分起床……(中略)この後は食事して七時に出発して、分隊長が来て、遺族に捨てられた支那兵遺体が、自動車や戦車に轢かれていくのを見るのは死人になれた目にも痛々しい……
--------------------------------
ということがこのページには書いてあるのだが、さて、これのどこが「記録された虐殺及び暴行」なのであろうか?
戦争中なのだから、「引き取る遺族の居ない、散らばった死体を戦車が轢いていったこと」が、死体遺棄罪にあたるなんて言うのではまさかあるまい。
となると、真ん中の「残虐なことをした話」「敵国の人間でもあまりなことは可哀想だ」……と戦友達が言っていたのを聞いたということなのだろうか?でも、これは明らかに伝聞で何の証拠にもならない。
「小僧って、足が長くて美形でオトコマエだ」と、戦友達が言っていたのをあなたが聞いたとしても、それは小僧が足が長くて美形でオトコマエということの鉄の証ではないだろう。
そして、日記というよりもメモ書きのようなものであるために、「残虐なことをした」戦友達というのが、当時この日記を書いた人のすぐそばにいた「その戦友達」なのであるか、それとも「その戦友達」のそのまた戦友達なのかがはっきりしない。
つまり、伝聞の伝聞だという可能性だってある。しかも、南京に日本軍が入場したのは1937年12月13日で、この日記は11月30日前後のこと。
常州といえば南京まで100キロあまりの距離がある。常州が南京ではないのは、小田原が東京でないのと同じことだ。
「オマエ、ほんっとにひつこい性格だろぉ」
と言われるのはわかっているが
 

1937.12.13
-1938.1

こんな日付をかかげて、「侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館(侵略日本軍の南京大虐殺によって難に遭った同胞のための記念館)」内に、「虐殺及び暴行の記録」資料として、こんなものが存在していてはイケナイのは確かであろう。
キナ臭さ大爆発してしまうので、即刻とりさげるか
「侵略日本軍の南京から半径100キロ以内の、いや、それ以上もっともっと遠い場所も含めた大虐殺により、難に遭った同胞のための記念館」とでも名前を変えた方が良いのではないだろうか。
でないと私のように不遜な「コミニストではなく、ツッコミニスト」に……いいように突っ込まれてしまうことだろう。


■あ、東日記……

他には「大日本帝国軍による虐殺によって、血みどろになった衣服(複製)」とかいう、複製品の展示もヤマほどあった。
でも、(複製)ってなんだよーー。
原爆でボロボロになった屋根瓦(複製)
そんなものに、どんな証拠能力やリアリティがあるというのだ!
複製というからにはオリジナルがあるのだろう。せめてオリジナルの写真ぐらい撮って、すぐ横に展示しておけ。
それもできないのいうのなら
「大日本帝国軍による虐殺によって、血みどろになった衣服(想像により捏造)
とか
「大日本帝国軍による虐殺によって、血みどろになった衣服(妄想により創作)
と言われても、説明のしようがないではないか。
こうやって「あやふやな資料」と「あやふやな複製品」ばかり並べているのを見ると、イスラエルの「ホロコーストミュージアム」の石鹸に続き
全部の展示が疑わしくなっちゃうよ〜
という気分になる侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館なのであったが、極めつけは「東史郎日記」なる展示。

東史郎さんは1912年生まれで京都第16師団、福知山第20連隊の元兵士で、1937年8月に25歳で召集されて南京に赴いた人だ。「悪の原動力を探求、反省し、再び過ちなからんことを願ってこそ、日中友好の基ではないか」という思いのもと、戦地で書き続けた日記や陣中記録をもとに
「私は南京で虐殺しまくって、強姦しまくりました」
なる「わが南京プラトーン」という手記を書いて青木書店より出版、記念館にある「東史郎日記」というのは、すなわちこの「わが南京プラトーン」のこと。
私は最初から言っているように「大屠殺はあった」と言っているので、こういった証言はとても貴重だと思う。東さんも本来なら語りたくないことなのに、「戦争犯罪人としてのレッテル」覚悟で市民団体の求めに応じたカタチでカミングアウトをされ、反省されているのはとても立派だと思う。
が、しかし、東さん。自分の為した虐殺を語っていればそれはそれとしてよかったのだが、「上司も私と一緒にこんな虐殺をしました」などと書いてしまったがために
「身 に覚えのない虐殺行為の実行者として本に書かれ、名誉を棄損された」
として、元分隊長の橋本さんが1993年4月東さんと関係者に損害賠償等を求め東京地裁に訴え出た。
1998年12月22日までに13回の公判を重ね
「郵便袋に人を詰めて沼に沈めたあと、どうやって手榴弾で爆破させるのですか?それをしたというには、具体的な手段や方法が東さんはあいまいです」
ということで50万円+利子の賠償を命じる判決がくだされたのだ。
うーーん、なんだかなぁ……。
あえて書かなくてもわかるだろうが、この裁判は「南京大虐殺があったのか、なかったのか」ということとは何の関係もなく、「東史郎さんが書いた日記は、ウソかホントか」というものだった。
なのに
「南京大虐殺を政治的動機から否定し、歴史的事実を無視した判決である」
中華人民共和国は日本国にクレーム。
なんでそうなっちゃうんだよー!!ポイントがズレまくってるじゃないかー!

ため息しか出ないのである。
東さんのことを調べている時に出会ったwww.bekkoame.ne.jp/~ymasaki/というページには、「日本軍国主義の残党ファシスト」と闘う東史郎さんの写真があって、ほぉと眺めていたものの……その上の部分にあった、
 
 

南京大虐殺を否定する者は
中国人を差別する者である。
Those who deny the Nanjing Massacre 
discriminate against the Chinese people.

なる文字には正直ぐったりした。
またしても、私の大嫌いな「わたし」と「あなた」と「お国」と「歴史」がぐっちゃぐちゃである。
どうして「南京大虐殺を否定する、肯定する」と、「中国人を差別する、しない」が、「××〜は、○○である」という構文で結ばれてしまうのだろうか?
「東日記を否定する日本は、南京大虐殺を否定するものである」という、中華人民共和国の不思議なロジックと、あまりに似通っていることに驚くのは私だけではあるまい。

また、くだんの「東日記」のモトとなったといわれる、「戦地で書き続けた日記や陣中記録」を東史郎さん以外の誰も見たことがなく、「紛失した」と主張されているあたり……そんな大切な資料、なくしちゃダメじゃないか!なのだ。
「まぁ、東日記には嘘も書いてあったるわけね」と見るか、「じゃ、全部の記述も信用ならないわな」と思うかはそれぞれ自由だが、このようなウソまじりの「東日記」を、侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館は、これまた一生懸命フィーチャーして応援したりするのである。


■私が戦争に、断固反対する理由

ええ、だからね、戦争は無意味ですね。残虐ですね。無辜の市民まで巻き込まれますね。
誰が被害者で誰が加害者なんだか、国単位で割り切ろうにも割り切れませんね。
ゆえによって以後、世界じゅうで絶対に戦争を起こさないようにしたいですね。
というのは私の根底にある気持ちであり、つきなみすぎるけれど私の結論だ。
しかし今回は、いろいろ勉強したり質問しくさったりする上で唖然とする事実にもぶちあたった。
前にも書いたが、私の住んでいる中華民国には兵役というのがあり、この国の国籍を持つ男性はとりあえず国民の義務として兵役をこなさなければならないことになっている。
最近はいろいろとシステムの変更があってその兵役期間はさまざまだが、この兵役を終えたからといって
「はい、一生兵隊さんになって戦場へ行かなくていーですよ」
ということではないのだ。
45歳の誕生日までは、全中華民国の男性は後軍人。つまり「兵隊が足りなくなったら、いつでも戦争に行ってもらいます」という、ちっともありがたくないのは分かっているが、とりあえずこれが国の決まり事。
もちろんこれに該当する男性は兵役という期間を超えて来ているわけで、軍事に関してズブズブの素人でないことも事実である。

なので、私は「将来兵隊となって戦地に赴き、実際に敵と戦うかもしれない人々」という観点から、数人の友人をつかまえては戦時国際法のことなどをあれこれ、ネチネチと尋ねてみた。
とことが、とーーこーーろーーがーーーー。
「ゲリラ戦法は違法」とか「宣戦布告しないとどうなる?」みたいな基本的なことでさえ、誰ひとりとして正確に答えられる人は私のまわりにはいなかったのである。
「じゃぁ、戦場で軍服脱いだら市民か?」
訊いた私に、「そういうことだ」と答えたヤツがいかに多かったことか!
世の中はそんなに甘くないぞ!

後軍人なるひとたちまで、前線に呼び出される状態というのを想像してみれば
「いっかーみんな!これから戦争に行ってもらうわけだが……その前に国際法の心得というのをみっちり学んでもらおう」
などという講義がなされるわけがないのであって、今それを知らないということは……戦争行っても知らないわけで
「便衣作戦だってヤリ放題なのではないか?」
私は考える。
こんなとんちんかんな軍人を相手に戦争なんかしたら、どんなことになるやら考えただけでも恐ろしすぎるーーー!
また、こんな概念のヤツを戦場に行かせるわけにはいかないし、それでもって死なれても大変に困る!
というわけで、比較的身近なところに蔓延していた「無知さかげん」に基づいても、私は断固として戦争に反対を唱えるわけなのである。
おわかりかな?(紅羅坊名丸先生風に)



 
前に戻る
もう歴史はウンザリ、旅編へ行こう!